三村竹来社との関係
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「阿彌神社 (阿見町竹来)」の記事における「三村竹来社との関係」の解説
常陸總社文書の最古の記録にあたる治承3年5月(1179年)付けの「常陸国惣社造営注文案」(社殿等注文書)に、「竈殿一宇三間」の造営役として「三村竹来社」の名がある。三村とは、一般に上代筑波郡三村郷に比定されるつくば市小田付近の古称とされている。同じく常陸總社文書の文保2年5月4日(1318年)の小田貞宗請文に「筑波社三村郷分、全無造営之例候」とあり、「三村竹来社」の名は消えている。 最初の社殿等注文書に列記されている「筑波社、吉田社、佐都社、静都社、稲田社、大国玉社」は、管内分社ではなく本宮を指すため、「三村竹来社」は常陸国を代表する式内諸社に並称される大社の扱いとなっている。ただし、三村竹来社とは、本宮竹来社が別にあることを前提とした呼称であるから、この社だけは分社であったと考えられる。この大社については、今日後継社といえる社はなく、周辺に「たかく」に通じる地名もない。鎌倉時代の三村郷には三村山清冷院極楽寺という有力な寺院があったが、現在は痕跡もまばらにしか残っていない。この寺院群に「三村竹来社」が含まれていた可能性がある。 常陸總社文書は、少なくとも同時期には「竹来社」または「竹来神」という括りが存在したことを示している。これを「二の宮明神」よりも古い呼称として(阿彌神社ではなく)「竹来社」があったという事実を証する文献資料と捉えることもできる。
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