三村氏に下るとは? わかりやすく解説

三村氏に下る

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/25 13:33 UTC 版)

植木秀長」の記事における「三村氏に下る」の解説

その後の為資は備中尼子戦っており、一時松山城追われ備後国まで退避した後に奪い返したり目まぐるしい攻防があったが、この間の秀長の動向不明である。その後抵抗しきれずに尼子へと味方したようで、天文16年1547年)に尼子軍三浦貞久戦った際、備中呰部の植木氏の所領戦場になっており、この時三浦軍は敗退したが、秀長はこの後も失領していないため既に尼子臣従していた可能性が高い。 毛利元就支援受けて備中日の出の勢い三村家親尼子方の為資との対立表面化すると、天文21年1552年)に矢掛合戦勃発し三村毛利連合軍とこれに対抗する為資ら反毛勢力衝突し緒戦は為資が勝ったがやがて追い詰められ和睦和睦条件として猿掛城穂井田実近の養子荘元祐三村家親長男)が入って猿掛城主となり、松山城名目上庄為資の持城であった三村家親入城して、今後尼子戦い見越して一族動き監視しながら滞在するになった。これにより、草壁庄やその周辺の庄一族三村一族である元祐指揮下に入れられ、庄一族勢力大幅に衰退した。 ただ、秀長は臣従していなかったようで、天文21年1551年10月5日室町幕府13代将軍足義輝側近細川藤孝より天文20年1550年)に戦によって得た700貫文所領安堵受けており、この頃には備中含めた8ヶ国守となった尼子晴久家臣であると中央にも認識されていたようである。天文23年1554年8月時点でも植木氏と縁の深い大森神社尼子誠久寄進受けている。しかし、尼子衰退著しくなると植木氏も三村傘下に入ることになった

※この「三村氏に下る」の解説は、「植木秀長」の解説の一部です。
「三村氏に下る」を含む「植木秀長」の記事については、「植木秀長」の概要を参照ください。

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