三村監督時代
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1994年 新任の三村監督は前年崩壊した投手陣を再編し主に中継ぎ投手だった紀藤真琴、近藤芳久を先発に抜擢し、紀藤は16勝5敗で最高勝率を獲得した。近藤は巨人キラーとして活躍しシーズン11勝を挙げている。野手陣では控えだった金本知憲、緒方孝市、音重鎮等を積極的に起用、一定の成果を残した。前年苦しんだ捕手も西山秀二がゴールデングラブ賞・ベストナインを獲得する活躍をみせた。一時期は最下位から10連勝の快進撃で優勝争いに加わるものの、その後失速し3位に終わった。オフに川口和久が巨人にFA移籍、北別府が引退した。 1995年 この年のドラフト1位山内泰幸とカープアカデミー出身ロビンソン・チェコが大活躍した。しかし、主軸の前田が序盤戦でアキレス腱断裂の大怪我を負い、抑えの大野も不調でシーズン途中先発に回り、開幕投手を務めた佐々岡が抑えに回る等落ち着かない状況だった。チェコが15勝、山内が14勝で新人王、野村が3割30本30盗塁(最多安打のタイトルも取った)のトリプルスリーを達成した。江藤が2年ぶりの本塁打王・初の打点王、緒方が規定打席不足ながら初の盗塁王獲得し投打に目立った活躍をしながら怪我人や不調者が相次ぎ駒不足故に勝負どころで勝てず、一時は2.5ゲーム差に迫ったが首位ヤクルトの独走を許し6.0ゲーム差の2位に終わった。 1996年 チーム打率.281の打線とダイエーからテスト入団した加藤伸一、5年目の山﨑健が大活躍で前半戦を首位で折り返すも、後半戦主砲の江藤が負傷でシーズン復帰が絶望、エース紀藤が後半6連続先発失敗と前年同様勝負どころで怪我人・不調者が出てしまい最大11.5ゲーム差をつけていた巨人に逆転され、最終的には中日にも抜かれ3位で終えた。江藤が最高出塁率、緒方が2年連続の盗塁王、ルイス・ロペスが打点王を獲得した。 1997年 野手陣では江藤が前年の大怪我の影響からか打撃守備に精彩を欠き、正捕手の西山も開幕早々怪我でリタイアした。緒方が3年連続盗塁王、ロペス2年連続打点王、他のレギュラー陣も数字は残したが3年連続で勝負どころで打てなかった。投手陣は前年合計41勝した山内、紀藤、加藤、山崎が合計で9勝に終わった(山崎は未勝利)が、代わりにこの年のドラフト1位の澤﨑俊和、ドラフト2位の黒田博樹、3年目の横山竜士、8年目の高橋英樹が奮闘した。澤崎が新人王を獲得、横山がリリーフで10勝、黒田が6勝、高橋英樹が苦しい8月に4勝を挙げた。大野豊が42歳で史上最年長の最優秀防御率のタイトルを獲得したものの順位は3位ながら中日以外の4球団に負け越して貯金は作れず、この後貯金を作ってのAクラス入りは2014年まで達成できなかった。 1998年 新外国人のネイサン・ミンチー、この年のドラフト4位の小林幹英が活躍。前田も首位打者まで後少しの大接戦を繰り広げるが、5月頭までは好調だったがゴールデンウィークが終わる頃にはここまで支えていた投打の主力選手が軒並み不調・怪我人が出だし選手層の薄さから負けが込みだし、最終的には5球団全てに負け越しながらも借金15で5位に終わった。また、この年は神宮球場での試合は10戦全敗に終わった。 シーズン後に三村監督が退任、三村の後任監督は達川晃豊が就任した。この年限りで大野、正田が引退した。
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