能勢頼吉とは? わかりやすく解説

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能勢頼吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/13 15:32 UTC 版)

 
能勢頼吉
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 不明
別名 通称:又五郎/勝右衛門(「宇喜田家分限帳」)
墓所 岡山県岡山市妙勝寺
官位 修理大夫
主君 松田氏宇喜多直家
氏族 能勢氏
兄弟 頼吉金光宗高?
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能勢 頼吉(のせ よりよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将宇喜多氏の家臣。備前国本太城主。八浜七本槍の一人。

略歴

能勢氏は備前児島郡の小領主。多田頼貞の後裔というが、詳しい系譜は不明。

備前松田氏に属していたが、後に宇喜多氏に属し、永禄10年(1567年)の明善寺合戦荘元祐を討ち取る勲功をあげたとされる。天正9年(1581年)の八浜合戦にも参戦して戦功を挙げている。

元禄17年(1704年)に石丸定良によって編纂された『備前記』には、法名を寿三であったとしている。畑和良は鎌倉妙本寺に伝わる過去帳の1つ『妙本寺大堂常什回向帳』の中に「能勢八十郎父 寿讃」という人物が掲載されていることを指摘した上で、能勢八十郎は関ヶ原の戦い直前に作成された『宇喜多氏分限帳』より宇喜多秀家から360石を与えられた実在の家臣であるため、寿讃=寿三も実在の人物であるとしている[1]。同時に能勢氏の本拠地については頼吉が建てたとする説(『備陽国誌』)がある妙勝寺の所在する旭川河口部右岸(当時)[注釈 1]にあったと考えられ、本太城からは離れすぎていることを指摘し、頼吉が本太城主になったのは高松城の水攻め後に毛利氏と宇喜多氏の間の国境画定によって児島地域が宇喜多領と確定した(中国国分)後ではないかとしている[2][注釈 2]

子孫は池田氏に200石で仕官し、池田綱政の治世に寺社奉行をしていた能勢勝右衛門などを輩出している。

能勢氏略系図

源頼光-(八代略)-多田頼貞-多田(能勢)頼仲-(五代略)-能勢頼吉

脚注

注釈

  1. ^ 後世の埋め立てなどによって、現在では内陸部に位置している。
  2. ^ 本太城に近い般若院の記録によれば、天正初頭には上野隆徳の家臣・大滝高泰が本太城主であったことが知られているが、備中兵乱の結果、高泰は三村元親・上野隆徳と共に毛利氏に滅ぼされた[3]。この時、本太城も毛利氏に奪われたと推測される。

出典

  1. ^ 畑(森脇)、2024年、P281-285.
  2. ^ 畑(森脇)、2024年、P285-287.
  3. ^ 多和和彦「通生本太城に関する新発見」『倉敷春秋』第18号、1977年。 

参考文献

  • 畑和良「本太城主「能勢修理のこと」」『倉敷の歴史』第26号、2016年。 /所収:森脇崇文 編『宇喜多秀家』戎光祥出版〈織豊大名の研究 12〉、2024年10月、278-291頁。ISBN 978-4-86403-545-3 

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