能勢氏・宇喜多氏のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 16:07 UTC 版)
同年12月、毛利氏と和睦した浦上宗景が足利義昭(織田信長)から「播美作之朱印」を受領し、三カ国の守護となる。天正2年(1574年)3月、宇喜多直家が浦上宗景から離反し、毛利氏と同盟を結ぶ。これに憤った三村元親が毛利氏から離反し浦上宗景と結んだ。 天正3年(1575年)5月、毛利氏に攻められ松山城が落城し、三村元親が自害。同年6月、三村家親の娘婿である上野隆徳の常山城(児島)も落城し、三村氏は滅亡した(備中兵乱)。同年9月、宇喜多直家により、浦上宗景の天神山城が落城し、浦上宗景は上方に落ち延びた(天神山城の戦い)。 天正7年(1579年)10月、宇喜多直家は、毛利家から離反し織田信長に臣従。天正9年(1581年)末、宇喜多直家が岡山城で病死。天正10年(1582年)2月、宇喜多氏と毛利氏が備前国児島郡八浜で戦となり、宇喜多基家が戦死、宇喜多勢は敗走したが、本太城主・能勢頼吉を含む八浜七本槍の活躍でかろうじて毛利勢をくい止め、以降八浜城に籠城した(八浜合戦)。本太城は、天正8年(1580年)まで存在している。廃城時期は不明である。
※この「能勢氏・宇喜多氏のその後」の解説は、「本太城」の解説の一部です。
「能勢氏・宇喜多氏のその後」を含む「本太城」の記事については、「本太城」の概要を参照ください。
- 能勢氏・宇喜多氏のその後のページへのリンク