織田信長に臣従とは? わかりやすく解説

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織田信長に臣従

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:42 UTC 版)

筒井順慶」の記事における「織田信長に臣従」の解説

元亀2年1571年10月25日順慶明智光秀斡旋をもって信長臣従し、久秀も佐久間信盛通じて信長臣従したので、同年11月1日光秀・信盛の仲介順慶と久秀は和睦したといわれる。やがて久秀は同じく信長対立するようになった将軍足利義昭などと結託する信長包囲網)が、順慶北小路城に久秀・久通父子招待して猿楽を催すなど表面上はしばらく円滑な関係が続いたとされる(『和州諸将軍伝』)。 元亀3年1572年4月三好義継は久秀らとともに交野城再度攻囲し信長軍勢送りそれを救援した。これにより久秀と信長の関係は破綻し以後織田方の順慶松永久秀衝突繰り返していく。この年12月には武田信玄三方ヶ原の戦い織田徳川連合軍破って信長との対立決定的にし、翌元亀4年1573年2月には足利義昭信長を敵として挙兵するなど、信長やそれに与する順慶劣勢に陥った。しかし同年4月には武田信玄病死し7月義昭槙島城の戦い信長敗れて京都追放され、それを匿った三好義継11月信長討伐されると(若江城の戦い)、12月松永久秀多聞山城取り巻かれ和議申し込み、同城を明け渡す条件降伏した12月26日多聞山城開城された。翌天正2年1574年正月、久秀は岐阜城伺候しており、同じ月に順慶岐阜訪れ織田信長拝謁し3月23日信長臣従際しその証として母親人質として差し出している(『多聞院日記』)。 その後順慶信長傘下参戦する天正3年1575年2月27日信長の娘か妹を妻に迎える(『多聞院日記』)。同年3月原田直政大和守護任命されると、その与力となり、同年5月長篠の戦い信長鉄砲隊50人を供出同年8月越前一向一揆攻略にも原田直政率い大和軍総員内の隊で参戦した。だが、原田天正4年1576年5月3日石山本願寺戦の三津寺攻め戦死する同年1576年5月10日信長により明智光秀万見仙千代使者となり「大和一国一円筒井順慶存知」として大和国支配任される(『多聞院日記同日条)。同時期に明智光秀与力となる。5月22日には、人質として差し出していた順慶の母が帰国した。母の帰国許可されたことの返礼兼ねて順慶築城であった安土城訪問信長拝謁し太刀二振に、布などを献上し信長からは縮緬や馬を賜っている。5月30日光秀石山本願寺戦の陣地内で重病となり、一乗院で坊衆7人に祈祷させている。 天正5年1577年)、順慶は他の諸将と共に雑賀一揆反乱鎮圧した紀州征伐)。同年、久秀が信長に対して反旗を翻すと、信貴山城攻め先鋒務めている(信貴山城の戦い)。手始め片岡城陥落させ、続いて信貴山城総攻撃が行われた。10月10日遂に城は陥落、久秀父子切腹または焼死した信貴山城陥落については、順慶本願寺援軍称して潜入させた手勢内部から切り崩し行い落城貢献したと『大和軍記』は伝えている。また、大和志科』は、久秀の遺骸順慶回収し達磨寺手厚く葬った記述している。『和洲諸将軍伝』にも、久秀の遺骸達磨寺葬られた旨の記述があるが、ここでは久秀の遺骸回収し葬った人物は「入江大五良」と書かれている。 久秀父子滅亡もあって、天正6年1578年)に大和平定果たされた。同年信長命令により龍王山城破却している。同年4月播磨攻め参戦し6月には神吉頼定が籠城する神吉城攻撃している。帰国後の10月には、石山本願寺呼応した吉野一向衆徒を制圧し天正7年1579年)には、信長反逆した荒木村重篭る有岡城攻め参加した有岡城の戦い)。 天正8年1580年)、居城筒井城から郡山城移転する計画立てていた所に、8月信長より本城とする城以外の城の破却促す命令が出る。順慶筒井城はじめ支城破却し、築城した郡山城移転した筒井城から郡山城拠点移した根拠としては、筒井城低地にあり、水害影響被りやすかったという問題があった。同年9月8日信長大和一帯差出検地順慶命じ12月まで明智光秀滝川一益奉行として派遣され実行している。これに伴い10月28日戒重・岡弥二郎大仏供・高田次郎など、かつて松永久秀追従していた筒井家配下人物達が、信長一度離反した咎で明智光秀らの主導処断された。11月7日付「国中一円筒井存知」の信長朱印状正式に大和一国任され郡山城入城言い渡される。翌天正9年1581年6月3日かねてより確執があった吐田遠秀を郡山城謀殺し、6月15日にその領地与えられている(『多聞院日記』各同日条)。 同年天正伊賀の乱では他の武将とともに織田信雄属し9月3日大和から伊賀へと進攻、3,700の手勢を指揮し蒲生氏郷とともに比自山の裾野布陣するが、伊賀衆夜襲を受け、半数兵士失っている。この時、伊賀地理精通していた菊川九郎という家臣順慶窮地救ったといわれる比自山城の戦い)。その経緯については『伊乱記』が描写している。

※この「織田信長に臣従」の解説は、「筒井順慶」の解説の一部です。
「織田信長に臣従」を含む「筒井順慶」の記事については、「筒井順慶」の概要を参照ください。

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