織田信長との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:48 UTC 版)
天正8年(1580年)、信長は元親の四国征服をよしとせず、土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫る。元親は信長の要求を拒絶する。 このため信長と敵対関係になり、天正9年(1581年)3月には信長の助力を得た三好康長・十河存保らの反攻を受けた。康長は息子の康俊を寝返らせ、十河存保は中国で毛利氏と交戦している羽柴秀吉と通じて元親に圧迫を加えた。ただし、十河存保の動向は必ずしも信長に忠実ではなく、三好康長も阿波国内に元親に対抗するための拠点を確立したことを裏付ける史料が無い以上、天正8年の段階で信長と元親の関係が悪化したとする見方を疑問視し、天正9年(1581年)11月に羽柴秀吉が三好氏に追われていた野口長宗を擁して淡路を平定したことで織田勢力と長宗我部勢力が隣接し、その勢力範囲の確定(国分)を巡って対立を始めたのではないかとする説もある。 天正10年(1582年)5月には、神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍が編成されるなどの危機に陥った。このため三好氏旧臣らは元親を見限って康長に寝返り、さらに阿波の一宮城と夷山城を落とされた。元親は斎藤利三宛の書状で信長に対し恭順する意向を表している。四国攻撃軍は6月2日に渡海の予定であったが、その日に本能寺の変が起こって信長が明智光秀に殺された。信長の死で信孝軍は解体して撤退したので、元親は危機を脱した。
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