織田信長に敗退、服属
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永禄10年(1567年)、織田信長が数万の軍勢で伊勢北部を攻め、南部、加用、梅津、冨田などを服従させた(『勢州軍記』)。楠城の楠木家(正忠)ははじめ服属に応じず防戦したが、衆寡敵せず、降伏して織田軍の先導者となった(『勢州軍記』)。一次史料によれば、10月20日には敵が攻めてくるとのことで楠(くす)の地は大騒ぎになっており、22日には河曲郡全体が戦火の煙に包まれていた(里村紹巴『紹巴富士見道記』)。『総見記』(『織田軍記』、貞享2年(1685年))は、史料としては余り信用できないが、「信長公、此の勢を合わせて楠が城へ押し寄せ、十重・二十重に取り巻いて攻め戦い給う。城の本人楠十郎随分防ぎ戦うといえども(中略)纔(わずか)の勢にて堪え難くこれも終に降参して先懸けの人数に加わる」(引用は正確ではなく、漢字や仮名使い等適当に修正)と一応この事件を取り上げてはいる。『勢陽雑記拾遺』や『勢州四家記』も、降伏した楠十郎が山路弾正の守る高岡城までの案内役を務めたことを記している。 永禄11年(1568年)、信長の伊勢再侵攻で北畠家は降伏し、その信長の子を嗣子北畠具豊(後の織田信雄)として迎え入れた。北勢四十八家も滝川一益の支配下におかれ、楠木も与力の一つとなった(『勢州軍記』)。 永禄12年(1569年)、嫡子の正具が伊勢国を出奔して本願寺の顕如配下となり、織田信長に最期まで抗戦する構えを見せる(『全休庵楠系図』)。 元亀2年(1571年)9月、老齢のため隠居して伊勢国関(現在の三重県亀山市関町地区)に移り、出家して西蓮院実浄を名乗った(『全休庵楠系図』)。このとき、嫡子の正具が既に国を出奔していた上に、正具には男子がいなかったため、正具の娘の子の村田盛信(楠木正盛)を正具の養子とし、楠木氏の継承権を与える(『全休庵楠系図』)。 天正2年(1574年)5月、関で病死、享年は数え77歳(『全休庵楠系図』)。
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