織田信長に敗退、服属とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 織田信長に敗退、服属の意味・解説 

織田信長に敗退、服属

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:11 UTC 版)

楠木正忠」の記事における「織田信長に敗退、服属」の解説

永禄10年1567年)、織田信長数万軍勢伊勢北部攻め南部加用梅津冨田などを服従させた(『勢州軍記』)。城の楠木家(正忠)ははじめ服属応じ防戦したが、衆寡敵せず降伏して織田軍の先導者となった(『勢州軍記』)。一次史料によれば10月20日には敵が攻めてくるとのこと(くす)の地は大騒ぎになっており、22日には河曲郡全体戦火の煙に包まれていた(里村紹巴紹巴富士見道記』)。『総見記』(『織田軍記』、貞享2年1685年))は、史料として余り信用できないが、「信長公、此の勢を合わせてが城へ押し寄せ十重・二十重取り巻いて攻め戦い給う。城の本人十郎随分防ぎ戦うといえども中略)纔(わずか)の勢にて堪え難くこれも終に降参して懸け人数に加わる」(引用は正確ではなく漢字仮名使い適当に修正)と一応この事件取り上げてはいる。『勢陽雑記拾遺』や『勢州四家記』も、降伏した十郎山路弾正の守る高岡城までの案内役務めたことを記している。 永禄11年1568年)、信長伊勢侵攻北畠家降伏し、その信長の子嗣子北畠具豊(後の織田信雄)として迎え入れた北勢四十八家滝川一益支配下におかれ、楠木与力一つとなった(『勢州軍記』)。 永禄12年1569年)、嫡子の正具が伊勢国出奔し本願寺顕如配下となり、織田信長最期まで抗戦する構え見せる(『全休系図』)。 元亀2年1571年9月老齢のため隠居して伊勢国関(現在の三重県亀山市関町地区)に移り出家して西蓮院実浄を名乗った(『全休系図』)。このとき、嫡子の正具が既に国を出奔していた上に、正具に男子がいなかったため、正具の娘の子村田盛信(楠木正盛)を正具の養子とし、楠木氏継承与える(『全休系図』)。 天正2年1574年5月、関で病死享年数え77歳(『全休系図』)。

※この「織田信長に敗退、服属」の解説は、「楠木正忠」の解説の一部です。
「織田信長に敗退、服属」を含む「楠木正忠」の記事については、「楠木正忠」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「織田信長に敗退、服属」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「織田信長に敗退、服属」の関連用語

1
14% |||||

織田信長に敗退、服属のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



織田信長に敗退、服属のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの楠木正忠 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS