織田信長の上洛以後
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永禄11年(1568年)9月、足利義昭を擁した織田信長が上洛してくる。同年10月、久秀は義昭・信長から与えられた援軍とともに敵対する大和国人らを攻め、三好三人衆らに奪われていた信貴山城(平群町)を奪還した。同月、秀勝は久秀の子の久通とともに義昭や信長への御礼のため上洛した。 この年の12月5日、興福寺の官符衆徒沙汰衆である中坊氏から藤松を婿に迎えている。 永禄12年(1569年)の2月から3月にかけ、義昭は三好三人衆との戦いのため摂津や河内、和泉に軍勢を派遣しているが、その中には義昭直臣の和田惟政や信長家臣の佐久間信盛・柴田勝家らとともに、久秀家臣の結城忠正や秀勝が加わっていた。 永禄13年(1570年)2月、秀勝の娘が近江国甲賀の多羅尾光俊のもとへと嫁ぐ。 元亀元年(1570年)7月、松永氏と敵対する筒井順慶は十市城(橿原市)へと入り、8月には高樋城(奈良市)を築いた。同月、三好三人衆に備えて河内国大窪(八尾市)に陣取っていた秀勝は、筒井方と一戦して高樋に追い返している。 同年11月より、松永久秀は三好三人衆と織田信長の和睦交渉を開始し、12月には和睦を成立させた。しかし、翌元亀2年(1571年)5月、松永久通は和田惟政や畠山秋高と申し合わせて敵対したとして、指揮下にあった安見右近を自害させ、右近の居城・交野城(交野市)を攻めた。これに合わせ、三好三人衆と三好義継が畠山秋高の守る高屋城(羽曳野市)を攻める。7月には久秀・義継・三好長逸が和田惟政の高槻城(高槻市)を攻め、松永氏の義昭幕府からの離脱が決定的となった。こうした中、6月14日には秀勝が寝返るとの噂が流れ、秀勝の人質が多聞山城の本丸へと移されている。 同年8月2日、筒井順慶が辰市(奈良市)に要害を築いた。久秀は三好義継とともにこの攻撃へと向かい、同月4日、筒井方に大敗した(辰市の戦い)。この戦いで久秀の一族や多くの家臣らが討死し、秀勝も負傷した。この時の傷によってか、同年9月22日、若江城(東大阪市)にて死去。翌元亀3年(1572年)9月22日に追善供養が営まれた。
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