織田信長の上洛以後とは? わかりやすく解説

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織田信長の上洛以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 09:33 UTC 版)

竹内秀勝」の記事における「織田信長の上洛以後」の解説

永禄11年1568年9月足利義昭擁した織田信長上洛してくる。同年10月、久秀は義昭信長から与えられ援軍とともに敵対する大和国人らを攻め三好三人衆らに奪われていた信貴山城平群町)を奪還した同月、秀勝は久秀の子久通とともに義昭信長への御礼のため上洛した。 この年12月5日興福寺官符衆徒沙汰衆である中坊氏から藤松を婿に迎えている。 永禄12年1569年)の2月から3月にかけ、義昭三好三人衆との戦いのため摂津河内和泉軍勢派遣しているが、その中には義昭直臣和田惟政信長家臣佐久間信盛柴田勝家とともに、久秀家臣結城忠正や秀勝が加わっていた。 永禄13年1570年2月、秀勝の娘が近江国甲賀多羅尾光俊のもとへと嫁ぐ元亀元年1570年7月松永氏敵対する筒井順慶十市城(橿原市)へと入り8月には高樋城(奈良市)を築いた同月三好三人衆備えて河内国大窪(八尾市)に陣取っていた秀勝は、筒井方と一戦して高樋追い返している。 同年11月より、松永久秀三好三人衆織田信長和睦交渉開始し12月には和睦成立させた。しかし、翌元亀2年1571年5月松永久通和田惟政畠山秋高申し合わせて敵対したとして、指揮にあった安見右近自害させ、右近居城交野城交野市)を攻めた。これに合わせ三好三人衆三好義継畠山秋高の守る高屋城羽曳野市)を攻める。7月には久秀・義継・三好長逸和田惟政高槻城高槻市)を攻め松永氏義昭幕府からの離脱決定的となったこうした中、6月14日には秀勝が寝返るとの噂が流れ、秀勝の人質多聞山城本丸へと移されている。 同年8月2日筒井順慶辰市奈良市)に要害築いた。久秀は三好義継とともにこの攻撃へと向かい同月4日筒井方に大敗した辰市戦い)。この戦いで久秀の一族多く家臣らが討死し、秀勝も負傷した。この時の傷によってか、同年9月22日若江城東大阪市)にて死去。翌元亀3年1572年9月22日追善供養営まれた。

※この「織田信長の上洛以後」の解説は、「竹内秀勝」の解説の一部です。
「織田信長の上洛以後」を含む「竹内秀勝」の記事については、「竹内秀勝」の概要を参照ください。

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