織田信長の上洛と野田城・福島城の戦いとは? わかりやすく解説

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織田信長の上洛と野田城・福島城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:26 UTC 版)

篠原長房」の記事における「織田信長の上洛と野田城・福島城の戦い」の解説

しかし同年15代将軍・足義昭擁立した織田信長9月7日岐阜城出立12日六角義賢近江観音寺城陥落観音寺城の戦い)、25日大津まで進軍すると、篠原長房三人衆の軍は崩壊する。更に29日山城勝龍寺城退却した岩成友通降伏30日摂津芥川山城退却した細川昭元三好長逸が城を放棄10月2日には長房も越水城放棄し阿波国落ち延びた。その上10月20日足利義栄阿波国病死松永久秀三好義継信長臣従11月10日には長房暗殺未遂事件起きている。 長房らは阿波信長への反撃への体制整え永禄12年1569年1月三好三人衆和泉国上陸本圀寺義昭襲撃した。しかし、細川藤孝三好義継摂津国衆の伊丹親興池田勝正荒木村重らの援軍敗れ再度阿波国逃れている(本圀寺の変)。 元亀元年1570年6月三好長逸通じた荒木村重池田勝正追放すると、同年7月21日三好康長三人衆摂津中嶋再度上陸野田城福島城築城した。8月入り信長三人衆を討つため摂津遠征し26日野田城福島城攻めるも、9月13日石山本願寺参戦もあり、三人衆信長攻勢対し持ちこたえる。 さらに、浅井長政朝倉義景軍が琵琶湖西岸南下信長重臣森可成と弟・織田信治討死させると(宇佐山城の戦い)、信長浅井・朝倉軍京都侵入することを恐れ9月23日三人衆討伐諦め摂津国からの撤退開始野田城・福島城の戦い)、近江国まで退き比叡山延暦寺陣取る浅井・朝倉軍との長滞陣となった志賀の陣)。 一方の長房は、9月19日本願寺法主顕如から盟約を結ぶ書状受け取り27日阿波讃岐軍勢率いて兵庫浦に上陸瓦林城および越水城城主・瓦三河守討ち取り10月1日野田城福島城入城、更に山城向けて進軍した。しかし、11月21日織田方の松永久秀仲介により長房と久秀の間で人質交換が行われ和睦成立している。

※この「織田信長の上洛と野田城・福島城の戦い」の解説は、「篠原長房」の解説の一部です。
「織田信長の上洛と野田城・福島城の戦い」を含む「篠原長房」の記事については、「篠原長房」の概要を参照ください。

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