織田信長の上洛と抗戦
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永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、承禎は三好三人衆と通じて信長の従軍要請を拒絶、織田軍と戦った。しかし観音寺城の戦いで大敗を喫し、東山道沿いの観音寺城から南部の甲賀郡に本拠を移した。 元亀元年(1570年)6月には体制を建て直し、承禎は甲賀郡から南近江に北進、長光寺城に立て籠もる信長の重臣・佐久間信盛と柴田勝家を激しく攻めたてた(野洲河原の戦い)。更に8月には義治と共に朝倉義景・浅井長政や三人衆らと同盟し(野田城・福島城の戦い)、南近江の地で織田軍を圧迫、また10月初旬に出向いた徳川の援軍とも戦っている。この戦いでは同盟軍が優勢となり危機に陥った信長は同盟軍の切り崩しを図り、11月に足利義昭を通じて承禎父子と和睦している(志賀の陣、信長包囲網)。なお、観音寺城を奪還できないまま信長と和睦した承禎父子は実質的には降伏に等しく、この和睦をもって大名としての六角氏は滅亡したとする評価もある。 元亀3年(1572年)1月、甲賀郡から承禎は再度出陣し、湖南の三宅城・金森御坊(金森の一向一揆)と共に信長に抗戦している。これに手を焼いた信長は佐久間信盛と柴田勝家に攻撃を命じ、付近の寺院をことごとく放火し、近在の百を越える村々に今後、六角氏に味方しないよう起請文を提出させている(元亀の起請文)。この頃、大和の松永久秀や将軍・足利義昭も織田信長から離反しており、織田家の最前線は実質的に承禎がゲリラ戦を展開する近江まで後退していた。
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