織田信長の上洛と抗戦とは? わかりやすく解説

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織田信長の上洛と抗戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 22:01 UTC 版)

六角義賢」の記事における「織田信長の上洛と抗戦」の解説

永禄11年1568年)、織田信長足利義昭奉じて上洛開始すると、承禎は三好三人衆通じて信長従軍要請拒絶織田軍と戦った。しかし観音寺城の戦い大敗喫し東山道沿いの観音寺城から南部甲賀郡本拠移した元亀元年1570年6月には体制建て直し、承禎は甲賀郡から南近江北進長光寺城に立て籠もる信長重臣佐久間信盛柴田勝家激しく攻めたてた(野洲河原の戦い)。更に8月には義治と共に朝倉義景浅井長政三人衆らと同盟し野田城・福島城の戦い)、南近江の地で織田軍を圧迫、また10月初旬出向いた徳川援軍とも戦っている。この戦いで同盟軍優勢となり危機陥った信長同盟軍切り崩し図り11月足利義昭通じて承禎父子和睦している(志賀の陣信長包囲網)。なお、観音寺城奪還できないまま信長和睦した承禎父子実質的に降伏等しく、この和睦をもって大名として六角氏滅亡したとする評価もある。 元亀3年1572年1月甲賀郡から承禎は再度出陣し湖南三宅城金森御坊金森一向一揆と共に信長抗戦している。これに手を焼いた信長佐久間信盛柴田勝家攻撃命じ付近寺院ことごとく放火し近在の百を越え々に今後六角氏味方しないよう起請文提出させている(元亀の起請文)。この頃大和松永久秀将軍足利義昭織田信長から離反しており、織田家最前線実質的に承禎がゲリラ戦展開する近江まで後退していた。

※この「織田信長の上洛と抗戦」の解説は、「六角義賢」の解説の一部です。
「織田信長の上洛と抗戦」を含む「六角義賢」の記事については、「六角義賢」の概要を参照ください。

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