元亀の起請文
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1986年、藤田恒春は「(水木本)元亀の起請文」の巻頭文の署名「南龍子広雄」は文政六年(1823年)版「續浪華郷友録」掲載の「南龍堂 椿井流兵学古實国学 有職及物産名廣雄字 慶龍山城泉何辺上狛士 椿井権之輔」と同一人物であろうと推定した。南龍子広雄によって蒐集された「(水木本)元亀の起請文」は原本であろうと鑑定されている。 その巻頭文には「平群政隆」という署名落款が押されていた。草津市惣社神社所蔵「宝光寺縁起」には「南京興福寺官務家 永賜従五位下椿井越前権介平群政隆」「大般若寺由緒書」には「平群宿禰政隆」の署名があるという。 自治体史掲載の地名区分によれば「上狛士 椿井権之輔」の上狛は山城町椿井(旧椿井村)ではなく山城町上狛(旧上狛村)に該当する。 「大字椿井」を中心とした一帯は北之荘、「大字上狛」の地は南之荘と呼ばれ、地元の文書では「北むら」「南むら」といわれていた。狛氏は南之荘に、椿井氏と高林氏は北之荘に、それぞれ居館をかまえていたと考えられている —ふるさと椿井の歴史、 宝暦13年(1763年)「北原村絵図」では、椿井村、上狛村、北原村等の領地の区分が描かれている。ただし、椿井村も含めた旧狛野荘全域を総称して「上狛」とされることもあった。 明治22年(1889年)4月1日、単独で新村となり、北河原村、椿井村、神童子村は併合して高麗村となった。 1989年、高島幸次は「(水木本)元亀の起請文」は起請文著判者の一人の野村七之丞が椿井氏の出であり、南龍子広雄こと椿井権之輔は故実家としてだけでなく自らの祖先への関心ゆえに蒐集したのではないかと推測している。
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