織田信長の上洛戦とは? わかりやすく解説

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織田信長の上洛戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)

織田信長」の記事における「織田信長の上洛戦」の解説

一方、すでに述べたとおり、三好氏による襲撃の危険が生じたことから、義昭近江国脱出して越前国朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、本願寺との敵対という状況下では義景は上洛できず、永禄11年1568年7月には信長義昭上洛させるために、和田惟政村井貞勝不破光治島田秀満らを付けて越前国派遣している。義昭同月13日一乗谷出て美濃国向かい25日岐阜城下の立政寺にて信長会見した永禄11年1568年9月7日信長足利義昭奉戴し、上洛開始した。すでに三好義継松永久秀らは義昭の上洛に協力し、反義昭勢力牽制動いていた。一方義昭信長に対して抵抗した近江六角義賢義治父子織田軍の攻撃を受け、12日本拠地観音寺城放棄せざるを得なくなった観音寺城の戦い)。六角父子甲賀郡後退以降ゲリラ戦展開した。 更に9月25日大津まで信長進軍すると、大和国遠征していた三好三人衆の軍も崩壊する29日山城勝龍寺城退却した岩成友通降伏し30日摂津芥川山城退却した細川昭元三好長逸が城を放棄10月2日には篠原長房摂津越水城放棄し阿波国落ち延びた唯一抵抗していた池田勝正信長降伏した。 もっとも、京都その周辺人々はようやく尾張美濃平定したばかり信長実力者とは見ておらず、最初のうちは義昭自派諸将率いて上洛したもので、信長はその供奉の将という認識であったという。 足利義昭第15代将軍擁立した信長は、義昭から管領斯波家家督継承もしくは管領代副将軍地位などを勧められたが、足利家桐紋斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる

※この「織田信長の上洛戦」の解説は、「織田信長」の解説の一部です。
「織田信長の上洛戦」を含む「織田信長」の記事については、「織田信長」の概要を参照ください。

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