織田信長の天下へとは? わかりやすく解説

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織田信長の天下へ(元亀年間)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:25 UTC 版)

戦国時代 (日本)」の記事における「織田信長の天下へ(元亀年間)」の解説

織田政権」および「信長包囲網」を参照 足利義昭 織田信長 義昭期の幕政足利義昭天下政治を、織田信長軍事それぞれ役割分担して行っていたが、単独での将軍警護を困難と判断した信長永禄13年/元亀元年1570年1月諸大名国衆による共同推戴体制構築想定して、各領主上洛促す武家御用」の触状発した。この触状伊勢三河遠江飛騨但馬河内・大和和泉播磨丹波・丹後若狭近江紀伊越中能登甲斐淡路因幡備前摂津大名国人国衆に対して要請出され飛騨三木自綱、伊勢北畠具房三河遠江徳川家康河内畠山高政及び三好義継丹後一色義道大和松永久秀多く大名要請応えて上洛した。また但馬太田垣氏備前宇喜多氏豊後大友氏使者派遣した。しかし越前朝倉義景出仕拒否したため、信長同年4月の義景に討伐目的にした越前征伐行った浅井長政の裏切りにより遠征失敗終わった6月には近江国野村朝倉浅井連合軍合戦徳川家康と共に撃破したが、義景と長政その後三好三人衆本願寺・顕如らと信長包囲網形成し対抗した信長西方本願寺三好三人衆東方朝倉氏浅井氏からの圧力を受け、さらに甲斐武田信玄も義景らの催促を受け元亀3年1572年10月甲斐から西方出兵し、信長と反信長方との緊張増した。 さらに将軍義昭信長の関係にも亀裂入った信長元亀3年末から翌元亀4年1573年正月頃、義昭に「異見十七ヶ条」を上程義昭政務厳しく批判した同年2月義昭信長成敗目的挙兵し信玄も「公儀御威光を以て上洛目指した。だが信玄4月信州駒場陣中病没してしまい義昭7月山城槙島信長敗れ京都から追放された。天正改元後の8月-9月信長朝倉浅井氏滅亡させ、11月には河内若江城三好義継信長軍に攻撃され自害した。 こうして室町幕府時代終わり安土桃山時代移行した

※この「織田信長の天下へ(元亀年間)」の解説は、「戦国時代 (日本)」の解説の一部です。
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