織田信長の天下へ(元亀年間)
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「戦国時代 (日本)」の記事における「織田信長の天下へ(元亀年間)」の解説
「織田政権」および「信長包囲網」を参照 足利義昭 織田信長 義昭期の幕政は足利義昭が天下の政治を、織田信長は軍事とそれぞれ役割を分担して行っていたが、単独での将軍の警護を困難と判断した信長は永禄13年/元亀元年(1570年)1月、諸大名・国衆による共同推戴体制の構築を想定して、各領主に上洛を促す「武家御用」の触状を発した。この触状は伊勢・三河・遠江・飛騨・但馬・河内・大和・和泉・播磨・丹波・丹後・若狭・近江・紀伊・越中・能登・甲斐・淡路・因幡・備前・摂津の大名と国人・国衆に対して要請が出され、飛騨の三木自綱、伊勢の北畠具房、三河・遠江の徳川家康、河内の畠山高政及び三好義継、丹後の一色義道、大和の松永久秀等多くの大名が要請に応えて上洛した。また但馬の太田垣氏、備前の宇喜多氏、豊後の大友氏は使者を派遣した。しかし越前の朝倉義景は出仕を拒否したため、信長は同年4月の義景に討伐を目的にした越前征伐を行ったが浅井長政の裏切りにより遠征は失敗に終わった。6月には近江国野村で朝倉・浅井連合軍と合戦し徳川家康と共に撃破したが、義景と長政はその後、三好三人衆、本願寺・顕如らと信長包囲網を形成し対抗した。信長は西方の本願寺と三好三人衆、東方の朝倉氏と浅井氏からの圧力を受け、さらに甲斐の武田信玄も義景らの催促を受け元亀3年(1572年)10月に甲斐から西方に出兵し、信長と反信長方との緊張は増した。 さらに将軍・義昭と信長の関係にも亀裂が入った。信長は元亀3年末から翌元亀4年(1573年)正月頃、義昭に「異見十七ヶ条」を上程し義昭の政務を厳しく批判した。同年2月、義昭は信長の成敗を目的に挙兵し、信玄も「公儀の御威光を以て」上洛を目指した。だが信玄は4月、信州国駒場の陣中で病没してしまい、義昭は7月に山城槙島で信長に敗れ京都から追放された。天正に改元後の8月-9月、信長は朝倉・浅井氏を滅亡させ、11月には河内若江城の三好義継も信長軍に攻撃され自害した。 こうして室町幕府の時代は終わり、安土桃山時代に移行した。
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