丹波・丹後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 01:49 UTC 版)
山陰道に属する丹波国と丹後国はともに天正3年(1575年)以来、織田信長の攻略をうけた。山陰方面司令官にあたったのは明智光秀であった。天正7年(1579年)、ようやく両国の平定が完了し、その結果、明智光秀は丹波一国、細川藤孝は丹後一国をあたえられた。 丹波は、清洲会議の結果、羽柴秀吉の領国となり、光秀の居城だった丹波亀山城(京都府亀岡市)には、信長の四男で秀吉の養子となった羽柴秀勝が入った。秀勝の死後は亀山10万石の大名として小早川秀秋が入ったが、文禄4年(1595年)の豊臣秀次の事件に連坐して改易となった。 こののち亀山には、文禄年間に前田玄以が5万石の城主となって入部した。なお、玄以は、西丹波の押さえとして多紀郡八上城の差配も命じられている。 明智光秀が改修したという北丹波の福知山城(京都府福知山市)には最初は杉原家次、ついで小野木重勝が4万石で入部し、何鹿郡山家(京都府綾部市)1万6,000石に谷衛友、同郡上林(綾部市)1万石に高田治忠などが所領を得た。また、慶長3年(1598年)には、織田信長の弟で秀吉の御伽衆であった織田信包が丹波国氷上郡柏原(兵庫県丹波市)に3万6,000石で入封した。 丹後は、天正6年(1578年)からの細川藤孝とその子忠興・興元兄弟による丹後攻めの結果、天正7年、一色氏を降伏させて占領し、天正8年(1580年)、あらためて信長から丹後一国があたえられた。藤孝は、当初宮津城(京都府宮津市)を本拠としていたが、天正11年(1583年)から13年(1585年)にかけて隠居城として田辺城(京都府舞鶴市)を築き、同地にうつった。本能寺の変に際しては、藤孝は幽斎と号して子息忠興に家督を譲り、また、剃髪して信長への弔意をあらわして光秀に対しては非協力の意思を表明したため、山崎の戦いののちの清洲会議では、細川氏の丹後領有が安堵された。
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