丹波出国後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 16:24 UTC 版)
文禄元年(1592年)、朝鮮出兵の時に豊臣秀吉に仕えた。文禄2年(1593年)9月2日、播磨国美嚢郡に1,000石を宛行われる。秀吉の弟の豊臣秀長と不和となり、大久保忠世を仲介に徳川家康に仕官を願ったが、一族等のもとにいるよう命じられる。後に再び豊臣氏に仕官するが、また退いている。 慶長5年(1600年)、石田三成の与力・矢田部助兵衛が、助兵衛の一族で忠家の家臣であった矢田部新左衛門宛てに密書を送ってきたのを家康に献上した。関ヶ原の戦いには東軍として参加。戦後、大和国十市郡に1,000石を賜り、戦前に与えられていた領地と合わせて2,000石となる。 慶長10年(1605年)、伏見にて死去した。享年57歳。
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