丹波侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 13:07 UTC 版)
天文22年(1553年)9月にも兄と共同で丹波国へ遠征して晴元方の波多野秀親の数掛山城(桑田郡)を包囲したが、香西元成・三好政勝が内藤氏の八木城を攻め、長慶方の丹波守護代・内藤国貞を討ち取ったため、急遽引き返して八木城を奪還した(『細川両家記』)。この時、湯浅宗貞が千勝(内藤貞勝)を園部城に匿い長頼が来るまで持ち堪えている。長慶から丹波方面を任された長頼は国貞の娘を娶っており、内藤家の跡目は長頼の子(国貞の孫)の千勝が継承した。長頼はその後見人であったと考えられる(「湯浅文書」「片山家文書」)。 しかし、弘治2年(1556年)頃に「内藤蓬雲軒宗勝」と号しており、内藤氏を掌握したと考えられる。弘治3年(1557年)には長慶が丹波に出陣、永禄2年(1559年)には八上城(多紀郡)を奪って波多野元秀を没落させ氷上郡を除く丹波を平定し、同年までには単独で裁決を下すようになっており、丹波は宗勝の半独立した領国とまで言われるほどまでになっていた。また永禄5年(1562年)以降には「備前守」を名乗り、内藤家の家督を正式に継承していた。さらに隣国の若狭国にも出兵し、守護の武田義統に反抗する逸見昌経の後ろ盾にもなっている。 以後も長慶の下で軍事行動を続け、永禄元年(1558年)5月、義輝・晴元らが近江から上洛を企てると兄と共に将軍山城・如意ヶ嶽で幕府軍と交戦(北白川の戦い)、永禄2年(1559年)と翌3年(1560年)の河内国遠征にも従軍、永禄5年(1562年)の畠山高政との戦い(教興寺の戦い)にも丹波国衆を率いて出陣しており、三好政権下の有力な軍団長であったといえる。
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