中世園部城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 12:47 UTC 版)
従来、近世園部城以前に中世園部城があったといわれてきた。中世園部城は波多野氏の家臣・荒木山城守氏綱の居城とされ、明智光秀の丹波侵攻に伴い落城したといわれる。 実際、『信長公記』には「四月十日、滝川、惟任、惟住両三人丹波へ差遣され、御敵城荒木山城居城取巻き、水の手を止、攻められ、迷惑致し降参申し退散、去て惟任日向守人数入置き」とあり、天正6年(1577年)4月10日に明智光秀・滝川一益・丹羽長秀が荒木山城守の籠る城を落城させたことが記されている。しかしその城が園部であるとは書かれていない。 荒木氏の城が園部城だという説は『籾井家日記』に基づくが、『籾井家日記』は史料的信憑性に問題のある近世の軍記物とされている。また、中世園部城の所在地を近世園部城跡などに推定する研究もあるが、近世園部城の築城以前に城があったとする史料も見つかっていない。一方、丹波篠山市の細工所城とその周辺のいくつかの城は荒木氏の城として伝わっており、籠城戦にまつわる伝承や歌が残っている。これらのことから、荒木山城守の居城としての中世園部城の存在は否定されている。
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