中世山城とは? わかりやすく解説

中世山城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 16:09 UTC 版)

山城」の記事における「中世山城」の解説

中世鎌倉時代から戦国末期まで全国的に築かれた(戦国末期のものを戦国山城ということもある)。

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中世山城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 14:15 UTC 版)

城山城 (播磨国)」の記事における「中世山城」の解説

赤松氏居城は則祐の父・赤松円心築いた白旗城であったが、播磨の西に寄りすぎていたため新たな居城として則祐が1352年正平7年/文和元年)から10年上の歳月をかけ、この兵庫県屈指の山城築いた。麓には則祐・義則の2代にわたる守護所越部守護屋形」があった。 1441年嘉吉元年)に起きた嘉吉の乱の際、赤松満祐(義則の子)は、当初この当時守護所である坂本城籠って室町幕府軍を迎え撃とうとしたが、坂本城では長期籠城戦には耐えられない判断し要害である城山城移動した。しかし、9月8日には山名宗全幕府味方した赤松満政の軍に包囲され、翌9日攻撃受けた。これを受けて籠城していた満祐の弟・赤松義雅嫡男千代丸と共に満政に降伏、義雅は千代丸を満政に預けて自害した。その一方で満祐と義雅の甥・赤松則尚逃亡成功している。10日には総攻撃が行われ、満祐は嫡子・教康や弟の則繁らを逃がし一族69とともに自害して城は落城した。 その後山名宗全統治経て再び赤松氏の城となったが、天文年間尼子晴久攻め込まれ陥落し播磨攻略拠点とされた。しかし、尼子軍撤退するいつしか廃城となった発掘調査による出土品たつの市埋蔵文化財センター展示されている。 現在、嘉吉の乱による城山落城の際に討ち死にした赤松一族らの供養塔本丸跡や麓の集落多数建てられており、赤松一族の霊を弔うための盆供養さいれん坊主」が毎年8月1415日行われている。赤松一族末裔らによる「さいれん坊主保存会」によって祭礼伝承なされている。 本丸跡 本丸跡赤松一族供養石造物 本丸跡赤松一族供養石造物

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