中世後半から17世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 06:05 UTC 版)
中世後半となると、何世紀にも渡り、リエージュの戦略的な地位の上昇のため、軍事的な目標となったり、反乱が頻繁に発生したりした。そのため、比較的早くから、都市の西側を見渡すことが可能な急な丘の上に城が建築された。 叙任権闘争の時期、「リエージュの司教オトベールは、自分の息子に圧迫されたハインリヒ4世を迎え入れ、4世はリエージュを拠点として反抗を組織している。リエージュ市民の援軍に支えられて、ハインリヒ4世は、ヴィゼの近くでハインリヒ5世がムーズ川を渡ろうとするのを撃退する」。1119年リエージュで2人の司教が対立した。「その際リエージュの教会のミニステリアーレと、リエージュの市民とは別々の立場をとった」。 司教Albert II. von Kuik(1194-1200)は市民に「自由」(libertates)を保証した。1230年ころには、カロリング朝にまで遡ると思われる「参審団」(Schöffenkolleg)と並んで、市の統治を行う「誓約団体」(jurés)も登場する。 13世紀には、新しい周壁(fermeté)が築かれ、その内部の面積は196 haとなったが、この状態は19世紀に至るまで変わらなかった。 1345年に、リエージュの市民は、当時の統治者であった司教君主ラ・マルクのエンゲルベルト(Engelbert de la Marck)に反乱を起こし、軍勢を都市の近くで破った。ブルゴーニュからの支配に対する反乱の後、1468年にフランスのルイ11世と、ヴァロワ=ブルゴーニュ家のシャルル突進公は、奇襲の成功とその後の戦闘により、リエージュを占領し、都市を大きく破壊した。リエージュは、公式には神聖ローマ帝国の一部であった。1477年以後、都市はハプスブルク家の、1555年以降はスペイン・ハプスブルク家の支配を受けた。しかし、実務的な支配はその司教君主が行っていた。ラ・マルクのエラール(Erard de la Marck, 1506年 - 1538年)の統治は、リエージュにおけるルネッサンスの発生と同時期であった。対抗改革の間に、リエージュの教区は分割され、次第に宗教的な国家としてのその役割を失った。17世紀には、司教君主がバイエルンのヴィッテルスバッハ家からやって来た。彼らは、ケルンと神聖ローマ帝国の北にある他の司教領を統治した。この時期になると、周囲の豊富な地下資源に支えられ、鉄の精錬や金属加工が盛んになった。当時の大商人ジャン・クルティウスは、火薬や明礬(みょうばん)を輸出して巨益をあげている。
※この「中世後半から17世紀」の解説は、「リエージュ」の解説の一部です。
「中世後半から17世紀」を含む「リエージュ」の記事については、「リエージュ」の概要を参照ください。
- 中世後半から17世紀のページへのリンク