中世後期、農民戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/23 04:48 UTC 版)
「ラウフェン・アム・ネッカー」の記事における「中世後期、農民戦争」の解説
15世紀、ラウフェンは、多くの所有者の利権が絡み合った漁業権や十分の一税徴収権をめぐる紛争の場となった。1454年、ウルリヒ5世伯の下で、ラウフェン湖が造られた。1460年、伯の軍勢は、ヴュステンハウゼン近くのシャルミュッツェルでプファルツ選帝侯軍と戦い、ネッカー川の漁業権と航行税徴収権の一部を奪い取られた。1461年、プファルツ選帝侯フリードリヒ1世は、ヴュルテンベルクの他の村への攻撃は行わない旨の約束を行った。1469年にはプファルツとヴュルテンベルクの間で起こったムル川での建築木材輸送に関する税収紛争が協定により解決した。 1474年、ウルリヒ5世はラウフェン付近に、最初のネッカー橋を架け、これにより船舶の通行税をすべてラウフェンのものとすることに成功した。この橋は144年間、カンシュタット(現在のシュトゥットガルト=バート・カンシュタット市区)とハイルブロンの間のネッカー川唯一の橋であり続けた。この橋は、1529年の洪水で破壊され、1532年に再建された。1480年には市庁舎が建設され週の定期市が設立された。1482年にはペストが襲い、ラウフェン住民の1300人が犠牲となった。 ドイツ農民戦争では、1525年4月半ばにラウフェンとゲンミンゲンの間に、マーテルン・フォイアーバッハ指揮下のヴンネンシュタインからの農民軍にハンス・ヴンデラー指揮下の「シュトックベルガー団」、イェックライン・ロールバッハの軍勢、合わせて8000人の宿営地が設営された。この勢力を目の前にしたラウフェンの議会は、農民と手を結び、このため略奪されたのは修道院だけであった。 1534年5月13日、11,000人のオーストリア軍が25,000人のヘッセン軍に敗れたラウフェンの戦いで、追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒが権力の座に返り咲いた。シュマルカルデン戦争では、1547年頃の1年間ラウフェンはスペイン軍に占領された。 1564年にはペストが再び猛威を振るい、約800人の犠牲者を出した。ペストは、1606年、1607年、1626年にも、犠牲者こそ少なかったものの、発症している。
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