中世後期、封建主義の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/19 09:18 UTC 版)
「アドラーノ」の記事における「中世後期、封建主義の時代」の解説
12世紀終わり頃、ホーエンシュタウフェン家がシチリアに入ってきたことは、シチリア島とその住民に絶え間ない困難と紛争をもたらした。シチリアに残ったアラブ人たちは統治者によって激しく追及された。トロイーナ、エンテッラ(Entella)、チェントゥリーペの要塞の中に無理やり集められた彼らは、武器をとって抵抗した。反乱は暴力的な結末を迎え、生き残った者は虐殺されるか拉致された。1265年、教皇クレメント4世がシャルル・ダンジューをシチリア王にし、ホーエンシュタウフェン家の南イタリア支配は終わった。この頃のアドラーノは猟師たちの小さな集落で、人口も1000人から300人に減少していた。 1282年、「シチリアの晩祷」はフランスによるシチリア支配を終わらせ、アラゴン王ペドロ3世が王となった。これ以後の期間は、住民である農民たちと地域のブルジョワジーとの絶え間ない紛争と特徴づけることができる。アドラーノはカタロニア人の地主 Garzia de Linguida の所有地となり、結局1286年に Luca Pellegrino の所有地となった。15世紀まで、この地域の財産と土地は、何人かの地主や貴族の間で争奪された。 15世紀から、シチリアはいわゆる「副王」による統治を受けた。1412年から1515年まで、アドラーノはモンカダ家 (Moncada) によって治められた。Giovan Tommaso Moncada (1466–1501)はノルマン人の城を改修し城塞化した。彼はギリシャ北部のイピロス地方からの難民がアドラーノ付近に定住することを認めた(これにより作られた町がビアンカヴィッラである)。モンカダ家の係累は、市内に多くの邸宅を構えた(その一つはのちに市庁舎として使われている)。都市の中心部に作られた広場は、6000人を数える住民の集会場所となった。このころ、サンタルチア修道院の建設が始まった。1693年、激しい地震はこの町に大きな被害を与えた。
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