中世後期から近世
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室町時代には斯波氏・今川氏が守護に補任される。斯波氏の遠江守護の地位を得たものの、今川氏は遠江回復を図り、同じ足利一門である吉良氏も遠江国内の要地である浜松荘や懸河荘などを支配するなど、不安定な支配が続いた。 戦国時代に元来東の駿河国に強固な地盤をもつ今川氏が斯波氏・吉良氏を圧倒して領国化した。今川氏が衰えると、甲斐国の武田氏と、今川配下から独立した三河国の徳川家康による今川領分割が約され、遠江は家康が領するとされた。しかし今川支配を駆逐した両氏はまもなく交戦状態となり、山岳部や丘陵部は侵攻した武田氏が支配し、家康の支配は遠州平野や掛川地方を中心とする平地部に限られた。このため家康は浜松城を築いて居城を移し武田氏と対峙した。武田軍と徳川軍が交戦した遠江国の地としては、二俣城・高天神城・三方ヶ原が有名である。武田軍が伊那地方から遠江国に入る際には、兵越峠経由の連絡線が整備された。 安土桃山時代になると、武田氏滅亡跡に武田領国を確保した家康は関東八カ国に移転し、代わって遠江国には豊臣系大名が配置され、浜松城に堀尾吉晴が、掛川城に山内一豊が転入する。 江戸時代になると、吉晴は松江城に、一豊は高知城に移転する。代わって、遠江国には浜松藩と掛川藩が設置され、譜代大名が入れ替わりで入った。また、江戸時代には、伊那盆地や水窪の木材が、天竜川の舟運を利用して遠江国平野部に運搬された。
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中世後期から近世
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1341年、パルマはミラノ公国の手中に納められた。1404年から1409年まで短期間のテルツィ家による自治時代の後、スフォルツァ家が1440年から1449年まで協力関係にあるパッラヴィチーノ家、ロッシ家、サンヴィターレ家、ダ・コッレッジョ家を通じて支配を課した。これらは新たな封建制度の一種の創設であった。市内とパルマ領内至る所に塔と城を建てたのである。これらの封土が真の独立都市国家へと進化した。ランディ家が、1257年から1682年までターロ谷を治めた。パッラヴィチーノ家のシニョーリ(領主)が現在のパルマ県東部へ拡大し、首都をブッセートとした。パルマの領土は北イタリアを除き、封建的な細分化された封土の一部としてさらに近年まで続いていた。例えば、ソリンニャーノは1805年までパッラヴィチーノ家が所有し続けた。またサン・セコンドは19世紀までロッシ家に属していた。 14世紀から15世紀のパルマは、イタリア戦争の舞台であった。フォルノヴォの戦いはパルマ領内で起きた。フランス軍は1500年から1521年まで市を占領し、その間1512年から1515年は短期間の教皇庁の幕間であった。外国人が追放された後、パルマは1545年まで教皇領に属していた。 1545年、当時の教皇でファルネーゼ家出身のパウルス3世はパルマ及びピアチェンツァを教皇領から分離させ、自身の庶子であるピエール・ルイージへ公国として与えた。ピエール・ルイージの子孫は、1731年にアントニオ・ファルネーゼが男子のないまま死ぬまでパルマ公を世襲した。公国は2代公爵オッターヴィオ・ファルネーゼの代に強化された。彼はその短くも豊かな治世のため、パルマを真の首都として市の構造を修繕もした。 1594年、パルマ大学の強化と貴族学校の創設の法令が出された。数年にわたり、戦争が貴族らの権力を削ぎ続けた。1612年、バルバラ・サンセヴェリーノが、パルマ公に対して陰謀を謀ったとして6人の貴族らとともにパルマの中央広場で処刑された。17世紀終わり、パッラヴィチーニの戦い(1588年)とランディの戦い(1682年)で打ち勝った後、ファルネーゼ家の公爵は、全パルマ領をついに手中に納めることになった。コロルノのサンセヴェリーノ家の城は、フェルディナンド・ビビエーナによって公家の豪華な夏の離宮に変えられた。 1731年、パルマ及びピアチェンツァ公国は揃ってブルボン家の手に渡った。イタリアで行われたヨーロッパ王朝政治においてパルマの宗主権が外交的に揺り動かされたためであった。新たな支配者の下、パルマは衰退に直面した。1734年、パルマの公爵宮殿の顕著な美術収集品全てが、コロルノとサーラ・バガンツァからナポリへ移された。 パルマは1748年のアーヘンの和約後、フランス影響下に下った。パルマは宰相ギヨーム・デュ・ティロの精力的な活躍で近代国家となった。彼は近代工業の基盤をつくり、教会特権に対して奮闘した。市は特別に壮麗な時代を経験した。図書館、考古学博物館、美術館と植物園がつくられ、同時にジャンバッティスタ・ボドーニによって公家の印刷所が指揮された。
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