中世後期の黒川金山
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確実な文献史料では山梨県山梨市の窪八幡神社別当寺である普賢寺住職の記した『王代記』の明応7年(1498年)条が初出とされている。『王代記』明応7年条では同年8月23日に発生した明応の大地震による甲斐国内の被害が記されており、「天地振動シテ国所損、金山クツレ」と記されている。『王代記』の記す「金山」は不詳であるが、地理的関係から黒川金山を指していると考えられている。15世紀までは、黒川は霊場として山伏や修験者などが滞在し、小規模な砂金採掘が行なわれていた。 1959年(昭和34年)には奥野高廣『武田信玄』において、甲斐金山は武田信玄(1521年 - 1573年)の時代に最盛期を迎え、武田勝頼(1546年 - 1582年)の時代には衰退したとされ、これが定説となっていた。遅くとも16世紀前半には本格的な金の採掘が始まっており、専門の職人集団としての金山衆を記した文書も多く存在する。1987年には黒川金山の、1992年には湯之奥金山の発掘調査が実施され、また両金山から出土した中世陶磁の年代観からこれを遡る武田信昌・信縄期にあたる1500年前後の戦国時代初期の開始が指摘される。 黒川金山衆に関わる最古の文書として、永禄3年(1560年)卯月18日の「武田家朱印状」(「田辺家資料」)がある。同文書によれば、同年に黒川金山衆の田辺家当主である田辺清衛門尉が青梅街道沿いの小田原(甲州市塩山下小田原・塩山上小田原)において問屋業を営むことを安堵されており、田辺氏が流通にも携わっていたことが確認される。 武田氏は永禄11年(1568年)末に今川領国への侵攻を行い(駿河侵攻)、これにより相模国後北条氏との甲相同盟が瓦解し、北条との抗争も発生していた。武田氏は元亀2年1571年)正月16日に北条方の北条綱成の守る駿河国深沢城(静岡県御殿場市)攻めを行っていたが、同年2月13日付武田家印判状(「田辺家資料」)によれば、この時に田辺四郎左衛門尉ら黒川金山衆が深沢城攻めに動員されている。黒川金山衆はこの時の功績により人足普請や棟別役など諸役免除の特権を得ているなお、元亀2年の深沢城攻めでは湯之奥金山のひとつ・中山金山の金山衆も動員されている。 黒川金山のある鶏冠山山頂に奥宮が存在する鶏冠神社には随身半跏像(阿行・吽形)が伝来している。阿行像の背面に銘があり、永禄2年(1559年)9月に薩摩国の僧・林賀が造営したと記されており、これは黒川金山の最盛期と重なることが指摘されている。一方、同じく鶏冠神社に伝わる数点の御正体は天正5年(1577年)の銘がある。こちらは黒川金山の金産出量が減少していた時期の奉納であると指摘される。なお、『甲斐国志』では鶏冠神社の御正体を「神鏡」としている。 天正5年(1577年)2月11日付武田家朱印状(「風間家文書」)によれば、黒川金山衆は同年1月にも諸役免除の特権を得ている。この頃は、金の採掘量が減少していたためと考えられている。また、同年8月にも武田勝頼から黒川金山衆に、金山から金が出ない間は毎月馬一疋の往還の諸役を免除するという朱印状が交付されている。なお、同年1月22日に武田勝頼は北条氏政の妹(北条夫人)を継室に迎え甲相同盟を強化している。 天正9年(1581年)2月吉日付武田家朱印状によれば、田辺家当主と子息に対して「新兵衛尉」の官途名が与えられた。 天正10年(1582年)3月の武田氏の滅亡後は天正壬午の乱を経て徳川家康が甲斐を確保する。天正11年(1583年)4月21日付徳川家印判状写(「田辺家資料」)によれば、黒川金山衆は武田氏時代の特権が認められている。
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