中世後期以降
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ウェールズの征服後約2世紀、国の統治のためにエドワード1世により制定された配置はそのままであった。この時代、城には守備隊が常駐しており、カーナーヴォンは事実上北ウェールズの首都であった。民族対立を根底とするウェールズ人とイングランド征服者間の緊張は、15世紀初頭にグリンドゥールの反乱(1400-1415年)の勃発におよんでいった。蜂起の間、カーナーヴォンはオワイン・グリンドゥールの軍の標的の1つであった。町と城は1401年に包囲され、同年11月、グリンドゥールによるトゥトヒルの戦い(英語版)がカーナーヴォンの防衛隊と蜂起軍の間に繰り広げられた。1403年および1404年には、カーナーヴォンはフランス軍からの支援によってウェールズ人部隊に包囲されている。 1485年にテューダー朝がイングランド王の座に就いたことで、ウェールズに変化をもたらし始めた。ヘンリー・テューダーはウェールズ出身であり、ヘンリーの統治はウェールズとイングランド間の対立を和らげた。結果として、カーナーヴォンの城のような、国が統治するために難攻不落の拠点を備える重要性は薄くなり、それらの城は放置された。 カーナーヴォンの場合、町や城の壁は良好な状態にあったが、屋根など保守を要するものは崩壊の様相を呈しており、多くの木材は腐っていた。城の7基の塔と2棟のゲートハウス(門塔)のうち、1620年には鷲の塔と王の門だけに屋根があるといった寂しい状態であった。城内の敷地の建物は、ガラスや鉄などの高価なものは剝ぎ取られていた。敷地の建物の荒廃をよそに、城の防御は十分な状態にあり、17世紀中頃のイングランド内戦においては国王派が駐屯した。カーナーヴォン城は戦争のなか3度包囲された。城代 (constable) はジョン・バイロンで、1646年にカーナーヴォンを議会派軍に明け渡した。カーナーヴォン城が交戦を見たのはこれが最後であった。1660年に城郭および市壁は取り壊すよう命じられたが、作業は早い段階で中止され、開始されなかったものと考えられる。 廃城 (slighting) を逃れたにも関わらず、城は19世紀後半まで放置されていた。1870年代になって、政府はカーナーヴォン城の修繕に資金を供給した。城代補佐のルウェリン・ターナー(英語版)が作業を監督し、現存する石積みを単に保存するのではなく、多くの場合に物議を醸すような城の修復や再建がなされた。階段、胸壁、屋根が修繕され、城郭の北の堀では、その土地の人の抵抗にも関わらず、中世より後の建物が景観を損なうものとして一掃された。Office of Works および1908年からはそれを継承した保護のもと、城はその歴史的意義により保存されていった。19世紀前半には、セイオント川に面した地域はカーナーヴォン港拡張のため埋め立てられ、現在はカーナーヴォン城の駐車場の一部となっている。 18世紀のカーナーヴォン城(ジョセフ・ファリントン(英語版)) 1830–1835年頃に描かれたカーナーヴォン(J・M・W・ターナー)
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