中世文学への影響
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「ジャンヌ・ド・コンスタンティノープル」の記事における「中世文学への影響」の解説
既に知られている2つの写本は、ジャンヌの図書館に属していたと考えられている。1つはフランスのフランス国立図書館に収蔵されている詩篇で、1210年頃に作られ、シャンパーニュ伯妃ブランシュ・ド・ナヴァールが、姪のジャンヌがフェランと結婚する際に彼女のために製作させたとも考えられている。第2の写本は、現在は大英図書館に保存されている、1210年から1220年頃にかけて作られたペルスヴァルまたは聖杯の物語の複写である。第2の写本は、クレティアン・ド・トロワのペルスヴァルが関係しており、別の章と『エジプトの聖マリアの生涯』(Vie de sainte Marie l'Égyptienne)が加わっている。上記の写本はどちらもシャンパーニュの工房で作られていた。 聖杯物語群の起草はフランドル伯家と密接なつながりがある。クレティアン・ド・トロワはジャンヌの大伯父であるフランドル伯フィリップ1世の庇護の下で創作していたのである。第3章の著者マヌシエ(Manessier)は、女伯ジャンヌに自らの作品を捧げている。第2章の執筆者でクレティアン・ド・トロワの前任者であったウォーシエ・ド・ドゥナンは彼女の側近の1人であった可能性があるが、本がジャンヌのために書かれたと確実に証明できる証拠はない。それとは異なり、若い女伯に1212年頃『聖マルトの生涯』が捧げられている。聖人の生涯を書いた作品であるにもかかわらず、タラスクの挿話も含め、すばらしい物語であるだけでなく騎士道物語に近いこのテキストはまだ10代だった彼の献呈相手の鍛錬と教育のために企画されたようである。聖マルトは偉大な講話者として表されており、聖フロンや聖ジョルジュが失敗した反乱都市の制圧も成功したのである.。 Van den vos Reynaerdeは、オランダ語で書かれた狐物語の初版であり、オランダ語で書かれた初期の文学作品の1つである。この作品には、騎士道物語の範疇に含まれないオリジナルの挿話が含まれている。作者Willem die Madocke maecteは、シトー会会員で1261年に死去しているギヨーム・ド・ブデロである。この才能ある聖職者は、1238年にシトー会総会の場で要求がされ、ジャンヌ女伯によって雇われていた。ジャンヌは彼をリールのオスピス・コンテスの監督者に創設された1238年から1244年まで任命し、その後コルトレイク近郊のマルケ修道院院長に任命していた。 しかしながら、文学後援者としてのジャンヌの活動は限界があったようである。文学後援者であることは、男性が支配する世界で女性であったからこそ成功した可能性があり、ジャンヌは意図的に、一般的に女性に割り当てられるこの役割を捨ててしまったのである。
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