中世日本の封建領主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/03 09:23 UTC 版)
中世封建制をめぐる議論は大きく3つの流れに整理できる。石母田正の「領主制理論」、安良城盛昭の荘園制解体=封建制成立説、戸田芳実の荘園制=封建制説である。 石母田は律令制古代社会をアジア的共同体関係と家父長制的奴隷制の2概念で規定し、家父長制下にある奴隷が農奴へ成長することで封建制社会へ移行したと考えた。この移行は長期にわたり、10世紀の農村における領主-農奴関係の登場をその萌芽とし、12世紀末の鎌倉幕府成立、14世紀の南北朝争乱などの段階を踏んで、守護大名による地域的封建制の確立をもって、封建制の完成に至ったとしている。また石母田は荘園制を古代的要素と規定したため、封建制と荘園制の相互の位置づけが曖昧となった。この説では、平安時代中期に登場した開発領主、鎌倉幕府の成立とともに成長していった武士の在地領主、南北朝争乱を経て地域的支配権を獲得した守護大名が封建領主として認識され、荘園領主は封建領主と認識されない。 これに対して安良城は、中世荘園制を家父長制的奴隷制と規定し、16世紀末の荘園制解体(太閤検地)をもってようやく封建制 = 幕藩体制が成立したと論じた。石母田による荘園制の曖昧な位置づけに対する反論として提出された安良城説は、1950年代中盤から1960年代にかけて日本封建制成立論争(太閤検地論争)を引き起こした。この安良城説では、近世大名のみが封建領主として定義されることになる。 石母田・安良城説に対し、戸田は院政期に成立した荘園制社会こそ封建制の具体的展開であるとした。戸田は律令制をアジア的共同体および相対的奴隷制と規定した上で、10世紀の律令制解体の過程で名田経営体である富豪層が登場して、富豪層が農民を従属させて農奴化して農奴主経営を開始したとし、その両極に領主経営と自立的小農民の小経営を設定した。これらの経営体は、平安後期までに農民ないし他の小経営を隷属させて農奴となし、自らは名主・在地領主として成長した。戸田は荘園制における職の体系を封建的知行体系として理解した。この説によれば、荘園制における領主は封建領主として認識されるので、武士の在地領主だけでなく公家・寺社からなる荘園領主も封建領主と規定される。黒田俊雄による権門体制論も、封建領主たる公家・寺社・武家が相補関係的な支配体制を構築していたとする点で、戸田説と通底している。 以上のように、中世の封建領主像については諸説に一致をみないまま推移したが、一応は戸田説が有力なものとされていた。
※この「中世日本の封建領主」の解説は、「封建領主」の解説の一部です。
「中世日本の封建領主」を含む「封建領主」の記事については、「封建領主」の概要を参照ください。
- 中世日本の封建領主のページへのリンク