中世時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 19:55 UTC 版)
西ローマ崩壊後、ゲルマニア地方出身の諸民族(敢えて本項ではゲルマン民族とは呼称しない)が豊かな土地を求めてイタリア半島へ侵入を試みてきた。西ローマを滅ぼした傭兵隊長オドアケルを倒しイタリアを征服した東ゴート民族の王は、オドアケルの西ローマ皇帝位返還によってローマの統一帝としての地位を得ていた中世ローマ皇帝よりイタリア総督の地位を与えられ、東ゴート王国を開いた。この際入り込んできたゴート人の数は約30万程度と言われ、原住のイタリア居住者からすれば圧倒的に人数が少なかったこともあって権力基盤は弱く、東ゴートの王は「イタリア人の王(rex Italiae)」と名乗らず、単に「rex(王)」と名乗った。東ゴート人の統治が短命に終わったこともあり、ほとんどのイタリア居住者は従来通りローマ民族に属していると考えていた。 中世ローマ帝国との戦争で滅んだ東ゴートに次いでイタリアを征服したのはランゴバルド民族(ロンバルド)民族であり、彼らはゴート人同様数十万人程度の数で原住者に比べ圧倒的に数は少なかったため、積極的にローマ時代の文化や法律を吸収し、自らの言語よりも積極的にラテン語とイタリア語を用い、混血を奨励することで自らローマ民族への同化を図った。結果、ゴート王国に比べ同民族による統治は安定し、フランク王国によってランゴバルド王国が滅ぼされるまで支配は続き、現在もロンバルディア州やロマンス諸語のロンバルド語などに影響を残す。 フランク王国による支配はランゴバルド王国に脅威を抱いたローマ教皇の要請によって、ランゴバルド王国が滅ぼされた後に始まる。自らの庇護を求めたローマ教皇はカール大帝に独断で西ローマ帝位を与え(なお明らかな越権行為であるこの戴冠をローマ教皇は「西ローマ帝国はコンスタンティヌス帝の代に贖罪として教会に寄進された。故に戴冠権も教会にある」とした。しかしその証拠として提示されていたコンスタンティヌスの寄進状は現在では教会による偽書と判明している。)、これによってフランク・ローマ帝国の領土として統治される。フランクによる支配は各地方の有力者に爵位を与えての地方分権的な方法であったこと、フランク帝国自身がローマ帝国の後継を自負したことなどから、従来通りローマ民族に属すると考えるイタリア居住者がほとんどであった。 フランク帝国が崩壊しイタリアが政治的空白に陥ると、北部は王位を争う貴族の領土が林立し、中部は教会の私有地と化し、南部は教会の後ろ盾を得たヴァイキングがアラブ人を追い払い王政国家が築かれた。これ以降、サルデーニャ王国による統一に至るまでの長きに渡って、多少の勢力変動はありつつもイタリアは政治的分裂の渦中でさまよい続けることとなり、イタリアに居住する人々も次第により小さな集団、即ち郷土愛に立脚した地方民族主義へと傾斜していった。
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