中世普門寺の中興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 05:17 UTC 版)
「普門寺 (豊橋市)」の記事における「中世普門寺の中興」の解説
『普門寺縁起』によれば、古代の普門寺は3000余りの坊舎を抱えて繁栄したが、嘉応年中(1169年 - 1171年)に比叡山に攻められ焼失し、次いで養和年間(1181年 - 1182年)に源頼朝叔父の化積によって中興された、という。今日残されている国の重要文化財の仏像群などからも、平安時代後期に普門寺が大きく生まれ変わったことは疑いないとみられる。久寿3年(1156年)には僧・勝意によって経塚が造営され、平治2年(1160年)には高松院(二条天皇の后)より下賜された梵鐘が、地域の人びとから奉納された銅を加えて再鋳造されて奉納された。永暦2年(1161年)には僧・永意によって新しい普門寺の発起文ともいえる「起請」が定められた。平安時代後期、普門寺は新しい村々を形成した地域の住人たちによって、地域社会の自立と結集の拠点として再生された。 鎌倉時代には山麓の雲谷、岩崎を中心に、一部は遠江に及ぶ広大な寺領を有しており、とりわけ雲谷などは普門寺の「境内」とも認識されるなど、中世の普門寺は山麓の地域社会と密接な関係をもって存立した。一方、『普門寺縁起』では源頼朝が平家追討の祈祷をして、頼朝と等身大の不動明王像(現在は客殿に安置)を造ったとの記述がある。平家滅亡後、頼朝が上洛する際には普門寺に立ち寄り多くの寺領を寄進し、寺門興隆し三河七御堂の随一と言ったとの伝もある。実際に当時の文献にも鎌倉幕府から厚い保護を受けていたことを窺わせる記録もある。 船形山山腹には200か所以上の人工の平坦地があり、多くの堂舎や坊院を抱えていたと考えられ、当時の隆盛を偲ばせる。とくに大きな平坦地である「元々堂址」「元堂址」はともに平安時代後期に大がかりな整備が行われ、現在も本堂跡の基壇が残されている。それぞれかつての普門寺を構成した船形寺(西谷、本尊聖観音菩薩)と梧桐岡院(東谷、本尊五大明王)に相当すると考えられている。
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