中世末期から近世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/10 04:14 UTC 版)
「ミンデン (ノルトライン=ヴェストファーレン)」の記事における「中世末期から近世」の解説
宗教改革の時代、1529年にミンデンでは深刻な対立が起こった。その結果市政を管理するための36人の委員からなる委員会が形成された。1530年2月13日、ついにニコラウス・クラーゼはマルティン教会の説教壇からミンデンのプロテスタント化を宣言した。魔女狩りの時代、1603年から1684年までの間に、合わせて128人が魔女裁判にかけられた。隣接する多くの地域と同様にもっぱら女性がその対象となった。三十年戦争では、1625年から1634年まで、この街はカトリックの皇帝軍によって占領された。1634年にプロテスタントのスウェーデン軍によって包囲され、最後にはこの軍によって征服された。スウェーデン女王クリスティーナは、ミンデン市民に対して、内政・外政のすべてにおいて完全な主権を認めた。三十年戦争後、ミンデンは1648年のヴェストファーレン条約によって、ブランデンブルク=プロイセン領となり、プロイセン王国が消滅する1947年まで、その領土であった。1711年6月10日にプロイセン王フリードリヒ1世が発布した「領主による市政綱領」によってミンデン市民の400年におよぶ自治権は消滅した。16人の商人、16人の手工業者、8人の代議士が選出され終身委員として市の運営にあたっていた40人委員会や、市参事会による議会は廃止された。 七年戦争(1756年から1763年)では、防禦を固めたミンデン市が戦場となった。この街は1757年の夏にフランス軍によって占領された。数ヶ月後、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公子フェルディナントが率いる同盟軍が反撃を開始し、1758年冬にミンデン周辺で激しい戦闘が行われた。ミンデンは、一旦は同盟軍が占領したものの、1759年の夏に再びフランス軍に占領された。1759年8月1日にミンデンの門前で行われたミンデンの戦いの結果、この城塞都市は最終的に同盟軍のものとなった。 1719年から1801年まで、この都市はミンデン=ラーフェンスベルク領邦の行政府所在地となり、1816年から1947年までは行政管区本部所在地となった。
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