中世湖西窯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 14:25 UTC 版)
平安時代に入る9世紀には、他の東海地方の須恵器窯のように灰釉陶器の生産に移行することなく、西隣の豊橋市二川窯の出現と入れ替わるように衰退するが、12世紀頃に山茶碗などを生産する中世陶器窯として復活し、碗皿類、壺類のほか、京都府仁和寺円堂院の瓦や、陶製五輪塔の生産などを行った。中世湖西窯は渥美半島の渥美窯(愛知県田原市域を主体とする)と同時期に出現し、窯構造や生産器種などに多くの類似点を持つことから、共通の基盤のもとに成立したと考えられている。なお、渥美窯と中世湖西窯製品の胎土は、同じ天伯原台地の粘土を使用しているため、両窯の峻別が極めて難しく、破片で出土することの多い遠隔消費地の遺跡では「渥美・湖西窯産」とされるか、一括して「渥美窯産」とされている場合が多いという。 その後鎌倉時代の13世紀には日常雑器(山茶碗)主体の生産にシフトしつつ存続するが、14世紀初頭には廃絶した。
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