中世盛期から後期の領邦の状況
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「ザウアーラント」の記事における「中世盛期から後期の領邦の状況」の解説
カール大帝の死後に始まった皇帝による中央集権の崩壊により、ザウアーラントでも徐々に領邦建設が行われた。総じてこの地域は主にザクセン公領に属した。ザクセン公は自らの領邦の南部に物質的興味を持っていなかったため、それよりも下位の地位の勢力、初めは世俗領、後に教会領が拡大していった。10世紀から11世紀に最も重要で、ヴェストファーレンで勢力を持っていた伯家がヴェルル伯であり、ザウアーラントの広い部分を領していた。叙任権闘争では、ヴェルル=アルンスベルク伯(ドイツ語版)を含むヴェストファーレン貴族はハインリヒ4世王の側についた。伯家の古い系統が断絶することでヴェルル=アルンスベルク伯領は著しく縮小した。その権力の空白状態を、アルテナ=マルク伯やイーゼンベルク伯といった新たな伯家が支配領域拡大に利用した。 カール大帝の死の約150年後、ザウアーラント西部はマルク伯領に、北部のヴァールシュタイン周辺はケルンのヴェストファーレン公領(ドイツ語版、英語版)に、東部はアルンスベルク伯領に属していた。レネタール下流部の小さな部分はリムブルク伯領(ドイツ語版、英語版)に属した。中世盛期から後期のザウアーラントの政治史は、これらの隣接する勢力によるこの地域での優位性を巡る争いで満ちている。 1180年のハインリヒ獅子公失脚後、ザクセン公領の分割が行われた。ザウアーラントの大きな部分がケルン大司教領に帰属した。こうして大司教のものとなったヴェストファーレン公の称号は、大司教の影響力が及ぶ範囲を拡大させた。大司教がこの権利を行使できるかどうかを最終的に決めるものは現実的な力であった。このため、領邦境近くにケルン側が都市メンデンを建設したことに対抗して、マルク伯エンゲルベルト1世(ドイツ語版、英語版)がイーザーローンを市に昇格させることを阻止することはできなかった。 特にアルンスベルク伯とマルク伯はケルンの勢力拡大に対抗したが、成果は様々であった。しかしケルンに対抗する同盟が結ばれることはなかった。そうするには互いの対立が大きすぎたのである。特に大司教ジークフリート・フォン・ヴェスターブルク(ドイツ語版、英語版)の拡大政策に対して抵抗が生じた。おそらくミンデン司教とミュンスター司教を除くヴェストファーレンの全ての領主がエーバーハルト1世 (マルク伯)(ドイツ語版、英語版)を含めてこれに関わった。司教が捕虜になったヴォリンゲンの戦い(ドイツ語版、英語版)(1288年)で決着がついた。この戦いの結果ケルンのヴェストファーレンにおけるさらなる拡大は阻止された。シュヴェルム(ドイツ語版、英語版)とハーゲンはマルク伯領となった。フォルマーシュタイン城とラッフェンベルク城は破壊された。大司教は他の領主と同じ領主の一人に過ぎなくなった。これに対してマルク伯の影響力が増大した。 時代とともに、特にアルンスベルク伯領が防衛的になっていった。14世紀後期には、アルンスベルク伯ゴットフリート4世が子供を遺さずに亡くなるであろうことが明らかになり、ケルン選帝侯とマルク伯がこの領土をめぐって対立した。これにはケルンが勝利した。大司教はアルンスベルク伯から領土を買い取り、ゴットフリート4世がケルン大聖堂に埋葬される唯一の世俗領主となることを可能にした。 こうして獲得した領地によりケルンのヴェストファーレンにおける拡大はピークを迎えた。マルク伯は独立を守り通した。ケルンの権威が大きく後退したのは、間違いなく、豊かな貿易都市ゾーストを失ったことからであった。ゾーストは、1444年にケルン大司教ディートリヒ2世フォン・モース(ドイツ語版)の高権は以後は認められず、マルク伯をも兼ねたクレーフェ公の支配下に置かれることが宣言された。これによりケルン大司教とゾースト市との間でゾーストのフェーデ(ドイツ語版、英語版)(1444年 - 1449年)が戦われた。ゾースト側には、クレーフェ公/マルク伯の他にブルグント公や数多くのヴェストファーレンの都市が味方した。この対立はすでに一都市の権利を巡るものではなく、ヴェストファーレン南部の権力分割を巡るものとなった。1447年、ゾースト市は12,000人の兵に包囲されたが、陥落しなかった。ゾーストとその周辺地域にあたるゾースター・ベルデは、クレーフェ公およびマルク伯の勢力下にとどまった。これに対してケルン側はこの戦争の間に占領したフレーデブルクおよびビルシュタイン周辺を保持した。これにより「ヴェストファーレン公領」の領土拡大はおおむね終了した。ゾーストの勝利によりマルク伯領もその拡張期のピークを迎えた。 ヴォリンゲンの戦いからゾーストのフェーデに至る1世紀以上に及ぶケルン大司教とマルク伯との抗争は結局マルク伯の優位に終わった。
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