マルク伯領
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- マルク伯領
- Grafschaft Mark
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← 1198年ごろ - 1807年 → (国章)
1560年ごろのマルク伯領(赤色)-
公用語 ドイツ語 首都 ハム - 伯
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1198年 - 1249年 アドルフ1世 1592年 - 1609年 ヨハン・ヴィルヘルム - 変遷
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成立 1198年ごろ クレーフェ公国と統合 1391年 ユーリヒ公国およびクレーフェ公国と統合 1521年 ブランデンブルク辺境伯領に統合 1614年 ベルク大公国に併合 1806年
マルク伯領(Grafschaft Mark)は、神聖ローマ帝国のニーダーライン=ヴェストファーレン・クライス (en) に属する伯爵領。首都はハム。領域はルール川両岸、そしてその支流であるフォルメ川 (en) およびレネ川 (en) 沿いに広がっていた。
マルク伯爵はヴェストファーレン地方の領主の中で最も強大な権勢を誇った。ドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州のルール川南方のマルク郡 (en) は、旧伯爵領の南部に当たり、その名前を受け継いでいる。伯領の北部に当たるリッペ川の北方は現在も「高地マルク(Hohe Mark)」と呼ばれ、中部地域に当たるリッペ川とルール川に挟まれた地域は以前「低地マルク」と呼ばれたが、現在はルール地方と呼ばれている。
歴史
マルク伯家はもともとベルク伯領から出てアルテナ (en) を本拠とした傍系であり、1160年にベルク=アルテナ伯(Berg-Alten)として独立した。1198年、アルテナ伯フリードリヒはケルン大司教フィリップ・フォン・ハインスベルク (en) が所有権を失ったマルク・オーバーホーフ(Mark Oberhof)という荘園を買い取り、この地にマルク城を建設してマルク伯を称した。1226年、フリードリヒの息子アドルフ1世はマルク城の近くにハムの町を建設した。ハムはすぐに伯爵領の最重要拠点となり、伯爵たちもこの町に引っ越した。
1288年のヴォーリンゲンの戦い (en) において、エーバーハルト2世は封建上の主君であるケルン大司教・ヴェストファーレン公のジークフリート・フォン・ヴェスターブルク (en) に反旗を翻し、ブラバント公ジャン1世および同族のベルク伯アドルフ5世に味方をした。この戦いではブラバント公とその同盟者が勝利を収め、マルク伯はヴェストファーレン南部の覇権を獲得し、ケルン大司教領との主従関係から独立した。最初のマルク伯領の領域(低地マルク)は、ルール川とリッペ川に挟まれる自然条件のために非常に限られていた。14世紀の間、マルク伯爵はミュンスター司教領 (en) との争いを通じて、リッペ川以北の地域(高地マルク)に領土を広げることに成功した。
1332年、アドルフ2世はクレーフェ伯ディートリヒ7世(9世)の娘マルガレーテと結婚した。アドルフの下の息子アドルフ3世は1368年に母方の血統からライン川西岸地域のクレーフェ伯領を獲得し、1394年には兄のエンゲルベルト3世の後をも継いだため、クレーフェ=マルク連合伯爵領が成立した。
1509年、クレーフェ=マルク公ヨハン3世(クレーフェは1417年に公爵領に昇格した)は、ユーリヒ=ベルク公ヴィルヘルム4世の娘マリアと結婚した。ヨハン3世は1511年に男子後継者のない義父の領土を相続し、1521年には父より一族の領土を受け継いだため、現在のノルトライン=ヴェストファーレン州を構成する領土が、教会・修道院領を除いては全てヨハン3世の下で統合された。この連合国家はユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国と呼ばれる。1609年に精神を病んだユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン・ヴィルヘルムが死ぬと、この連合公国の公爵家の男系が絶えた。広大な公国の相続をめぐってユーリヒ=クレーフェ継承戦争が起きたが、1614年のクサンテン条約 (en) により、ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントがクレーフェ公国、マルク伯領およびラーフェンスベルク伯領 (en) を獲得した。1701年にプロイセン王国が成立すると、マルク伯領はその一部とされた。
1807年、マルク伯領はティルジット条約によりプロイセンからフランス帝国に割譲された。1808年、ナポレオン・ボナパルトはマルク公国をフランスの衛星国となったベルク大公国領の一部とした。1813年にフランス帝国が崩壊すると、マルク伯領はプロイセン領に戻された。1815年、プロイセン政府は行政単位の大幅な変更を行い、マルク伯領はヴェストファーレン県 (en) に組み込まれた。プロイセン王・ドイツ皇帝は1918年に君主の地位を失うまで「マルク伯」の称号を君主号の一つに使い続けた。
マルク伯
- エーバーハルト1世(在位1160年 - 1180年、ベルク=アルテナ伯)
- フリードリヒ(在位1180年 - 1198年、ベルク=アルテナ伯)
- アドルフ1世(在位1198年 - 1249年)
- エンゲルベルト1世(在位1249年 - 1277年)
- エーバーハルト2世(在位1277年 - 1308年)
- エンゲルベルト2世(在位1308年 - 1328年)
- アドルフ2世(在位1328年 - 1347年)
- エンゲルベルト3世(在位1347年 - 1391年)
- アドルフ3世(在位1391年 - 1394年) - クレーフェ伯
- ディートリヒ(在位1394年 - 1398年)
- アドルフ4世(在位1398年 - 1417年) - クレーフェ伯、1417年よりクレーフェ公
- ゲルハルト(在位1417年 - 1461年)
- ヨハン1世(在位1461年 - 1481年) - クレーフェ公
- ヨハン2世(在位1481年 - 1521年) - クレーフェ公
- ヨハン3世(在位1521年 - 1539年) - ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公
- ヴィルヘルム(在位1539年 - 1592年) - ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公、ゲルデルン公
- ヨハン・ヴィルヘルム(在位1592年 - 1609年) - ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公
- ヨハン・ジギスムント(在位1614年 - 1619年) - ブランデンブルク選帝侯
- ゲオルク・ヴィルヘルム(在位1619年 - 1640年) - ブランデンブルク選帝侯
- フリードリヒ・ヴィルヘルム(在位1640年 - 1688年) - ブランデンブルク選帝侯
- フリードリヒ1世(在位1688年 - 1713年) - ブランデンブルク選帝侯、1701年よりプロイセン王
- フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(在位1713年 - 1740年) - プロイセン王、ブランデンブルク選帝侯
- フリードリヒ2世(在位1740年 - 1786年) - プロイセン王、ブランデンブルク選帝侯
- フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(在位1786年 - 1797年) - プロイセン王、ブランデンブルク選帝侯
- フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(在位1797年 - 1807年) - プロイセン王、ブランデンブルク選帝侯
系図
- マルク伯
- クレーフェ=マルク公
エッツォ家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アドルフ1世 ケルダッハガウの伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アドルフ2世 ケルダッハガウの伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アドルフ1世 ベルク伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アドルフ2世 ベルク伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エンゲルベルト1世 ベルク伯 | エーバーハルト1世 アルテナ伯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ベルク伯家 | アルノルト アルテナ伯 | メヒティルト (ホラント伯フロリス3世娘) | フリードリヒ1世 アルテナ伯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エーバーハルト2世 アルテナ伯 | フリードリヒ2世 アルテナ伯 | ゾフィー (リンブルフ公ヴァルラム3世娘) | アグネス =オルデンブルク伯クリスティアン2世 | アドルフ1世 マルク伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ディートリヒ1世 リンブルフ伯 | オットー アルテナ伯 | エンゲルベルト1世 マルク伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アーレンベルク家 | エーバーハルト2世 マルク伯 | アーデルハイト =クレーフェ伯オットー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マティルデ | エンゲルベルト2世 マルク伯 | クレーフェ伯家 | アドルフ (1288-1344) リエージュ司教 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
イルムガルト (クレーフェ伯オットー娘) | アドルフ2世 マルク伯 | マルガレーテ (クレーフェ伯ディートリヒ7世(9世)娘) | エンゲルベルト3世 (-1368) リエージュ司教 | エーバーハルト1世 (-1387) アーレンベルク伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エンゲルベルト3世 マルク伯 | アドルフ3世 クレーフェ伯(1世) ゲルデルン公 マルク伯 | マルガレーテ (ベルク伯ゲルハルト6世娘) | ディートリヒ1世 マルク伯 | ギーゼラ =チューリンゲン=ケーフェルンブルク伯ジッツォ | ブイヨン公家 マルク=アーレンベルク家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ユーリヒ=ベルク公家 | アグネス (皇帝ループレヒト娘) | アドルフ1世 クレーフェ=マルク伯 クレーフェ=マルク公 | マリア (ブルゴーニュ公ジャン1世娘) | ディートリヒ2世 マルク伯 | ゲルハルト マルク伯 | マルガレーテ =バイエルン公アルブレヒト1世 | エリーザベト =バイエルン公シュテファン3世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エリザベス (ヌヴェール伯ジャン娘) | ヨハン1世 クレーフェ=マルク公 | ベアトリス (コインブラ公ペドロ娘) | アドルフ ラーフェンシュタイン領主 | マルガレーテ 1=バイエルン公ヴィルヘルム3世 2=ヴュルテンベルク伯ウルリヒ5世 | カタリーナ =ゲルデルン公アルノルト・ファン・エフモント | エリーザベト =シュヴァルツブルク伯ハインリヒ26世 | アグネス =ビアナ公カルロス | ヘレナ =ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ハインリヒ2世 | マリア =オルレアン公シャルル | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴィルヘルム4世 ユーリヒ=ベルク公 | ヨハン2世 クレーフェ=マルク公 | マティルデ (ヘッセン方伯ハインリヒ3世娘) | エンゲルベルト ヌヴェール伯 ウー伯 | シャーロット (ヴァンドーム伯ジャン8世娘) | シャルロット ルテル女伯 (ヌヴェール伯ジャン娘) | ジャン・ダルブレ オルヴァル領主 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マリア | ヨハン3世 ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公 | シャルル2世 ヌヴェール伯 ウー伯 | マリー・ダルブレ ルテル女伯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アンナ =英王ヘンリー8世 | ヴィルヘルム5世 ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公 | フランソワ1世 ヌヴェール公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルブレヒト・フリードリヒ プロイセン公 | マリー・エレオノーレ | アンナ | フィリップ・ルートヴィヒ プファルツ=ノイブルク公 | ヨハン・ヴィルヘルム ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公 | フランソワ2世 ヌヴェール公 | アンリエット ヌヴェール女公 | ルドヴィーコ・ゴンザーガ=ネヴェルス ヌヴェール公 | ジャック ヌヴェール公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アンナ | ヨーハン・ジギスムント ブランデンブルク選帝侯 クレーフェ=マルク=ラーフェンスベルク公 | ヴォルフガング・ヴィルヘルム プファルツ=ノイブルク公 ユーリヒ=ベルク公 | ゴンザーガ家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ホーエンツォレルン家 | プファルツ家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参考文献
- 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年
- Jiří Louda, Michael Maclagan, Lines of Succession, Little,Brown & Company, 1981.
関連項目
外部リンク
マルク伯領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 09:18 UTC 版)
ユーリヒ=ベルク公ヴィルヘルム(ドイツ語版、英語版)の娘とヨハン3世との結婚により、クレーフェ公領、ユーリヒ公領、ベルク公領およびマルク伯領、ラーフェンスベルク伯領が統合された。1609年のヨハン・ヴィルヘルム公の死後、ユーリヒ=クレーフェ継承戦争が始まり、ヴェストファーレン南部でも全く新しい領邦の連携が創られた。この争いは1614年のクサンテン条約で決着を見た。これにより、ユーリヒ公領とベルク公領はプファルツ=ノイブルク公領に、クレーフェ公領とマルク伯領およびラーフェンスベルク公領はブランデンブルク選帝侯領に帰属することとなった。 その4年後に三十年戦争が始まり、経済的に危機に陥ったが、権力構造にはほとんど変化がなかった。 しかし、長い目で見れば、プロイセンへの移行は大きな影響を及ぼした。ミンデン=ラーフェンスベルク(ドイツ語版、英語版)と同様にメルキシェス・ザウアーラントも、比較的中央集権化が進んだプロイセン国家に次第に強固に組み込まれていった。確かにいくつかの都市法の名残は保持されたが、傾向としてはプロイセンの絶対王政が浸透していた。 マルク伯領の山地部分においては、近世には鉄製品、後には金属加工製品が重要であった。その有名な例がイーザーローンのタバコ入れであった。これに対して、精錬や中間製品の製造は重要性を失っていた。メルキシェス・ザウアーラントは、18世紀から19世紀初めにおいて、疑いなく第一等の産業集中地域であった。
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