アンナ・フォン・プロイセン_(1576-1625)とは? わかりやすく解説

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アンナ・フォン・プロイセン (1576-1625)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/29 00:36 UTC 版)

アンナ・フォン・プロイセン
Anna von Preußen
ブランデンブルク選帝侯妃
在位 1608年7月28日 - 1619年12月23日

出生 (1576-07-03) 1576年7月3日
プロイセン公国ケーニヒスベルク
死去 (1625-08-30) 1625年8月30日(49歳没)
ドイツ国民の神聖ローマ帝国
ブランデンブルク選帝侯領ベルリン
埋葬 プロイセン公国ケーニヒスベルク大聖堂
配偶者 ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムント
子女 一覧参照
家名 ホーエンツォレルン家
父親 プロイセン公アルブレヒト・フリードリヒ
母親 マリー・エレオノーレ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルク
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アンナ・フォン・プロイセンAnna von Preußen, 1576年7月3日 - 1625年8月30日)は、プロイセン公アルブレヒト・フリードリヒの長女で、ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントの妃。

生涯

アルブレヒト・フリードリヒは、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム5世と妃マリア神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の娘)の娘マリー・エレオノーレとの間に7人の子をもうけていたが、2人の男子はいずれも夭折していた。そのため、アルブレヒト・フリードリヒの死後はその後見を務めていたブランデンブルク選帝侯家(同じホーエンツォレルン家の宗家にあたる)がプロイセンを相続するという契約がなされていたが、この相続契約を補強するものとして、選帝侯ヨアヒム・フリードリヒの長男ヨハン・ジギスムントとアルブレヒト・フリードリヒの長女アンナの結婚が取り決められた。アンナはまた、母方を通じてクレーフェ公領マルク伯領ラーヴェンスベルク伯領の相続権も有していた。

アンナとヨハン・ジギスムントは、1594年10月30日ケーニヒスベルクで結婚した。その後、1603年にアンナの四妹エレオノーレがヨアヒム・フリードリヒの後妻となり、1604年に次妹マリーがヨアヒム・フリードリヒの弟であるバイロイト辺境伯クリスティアンと結婚し、プロイセンとブランデンブルクの関係はさらに強化された。

1618年、父アルブレヒト・フリードリヒが死去すると、既に選帝侯位を継いでいた夫ヨハン・ジギスムントがプロイセン公も継承するが、翌1619年に自身も死去し、アンナとの間の長男ゲオルク・ヴィルヘルムがプロイセン公兼ブランデンブルク選帝侯となった。

子女

アンナはヨハン・ジギスムントとの間に4男4女をもうけた。




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