アンナ・フォン・ブラウンシュヴァイクとは? わかりやすく解説

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アンナ・フォン・ブラウンシュヴァイク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/14 07:57 UTC 版)

アンナ・フォン・ブラウンシュヴァイク
Anna von Braunschweig

出生 1390年ごろ
死去 1432年8月10日
埋葬 神聖ローマ帝国
チロル伯領、シュタムス修道院ドイツ語版
配偶者 オーストリア公フリードリヒ4世
子女 マルガレーテ
ヘートヴィヒ
ヴォルフガング
ジークムント
家名 ヴェルフ家
父親 ブラウンシュヴァイク=リューネブルクフリードリヒ1世
母親 アンナ・フォン・ザクセン=ヴィッテンベルク
宗教 キリスト教カトリック
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アンナ・フォン・ブラウンシュヴァイク(ドイツ語:Anna von Braunschweig, 1390年ごろ - 1432年8月10日)は、オーストリア公フリードリヒ4世の2番目の妃。

生涯

父はヴェルフ家ブラウンシュヴァイク=リューネブルクフリードリヒ1世、母はアスカニア家のアンナ・フォン・ザクセン=ヴィッテンベルクである。父フリードリヒ1世は、ローマ王ヴェンツェルが廃位された後、1400年5月のフランクフルトでの帝国会議において、ローマ王候補となった(実際にはループレヒトがローマ王となった)。

1410年、アンナはオーストリア公フリードリヒ4世と結婚した。この結婚は、フリードリヒ4世の最初の妃エリーザベトが死去した後に、エリーザベトの父ローマ王ループレヒトからもたらされたものであった[1]

結婚後も、アンナは実家と連絡を取りあった。1421年4月、アンナはエンシスハイム英語版で母と面会し、1425年には姉カタリーナがしばらくチロルに滞在した。1430年1431年そして1432年に従兄弟ヴィルヘルム1世がアンナのもとを訪れた[2]

結婚後数年間については政治的活動を行ったという記録はないが、1414年6月にアンナはコンスタンツに滞在し、成功はしなかったものの、夫をローマ王にするための選挙運動を行った。チロルに戻った後、1417年初めまでアンナはもっぱらハインリヒ6世・フォン・ロッテンブルクが領有する南チロルに滞在した[3]

1418年から1427/8年にかけて、アンナは度々政治に関与している。例えば1419年春に、アンナはトリエント司教との争いに介入し、内オーストリアを訪問中で不在であった夫フリードリヒに代わって一時的な休戦協定を結ばせた。1419年夏から1421年秋まで、アンナは代表として、前方オーストリア(アルザス、シュヴァーベン)で評議員とともに、販売、誓約、賞や基金などの政治的活動を行った[4]

アンナは1432年に死去し、シュタムス修道院ドイツ語版に埋葬された。

子女

  • マルガレーテ(1423年 - 1424年6月9日)
  • ヘートヴィヒ(1424年 - 1427/32年[5]
  • ヴォルフガング(1426年2月16日) - 生まれた日に死去
  • ジークムント(1427年 - 1496年) - オーストリア公

脚注

  1. ^ Brandstätter, p. 178 and p. 181f
  2. ^ Brandstätter, p. 206f.
  3. ^ Brandstätter, p. 192f. 1418年以降のアンナの政治的活動から、ブランドシュテッターは、フリードリヒの利益を守るために彼女がチロルに戻ったとしている。アンナがチロルに戻るまで政治的活動が見られないのは、夫フリードリヒの兄エルンストがその間チロルの支配を行っていたためである。
  4. ^ Brandstätter, p. 193f. and p. 197f.
  5. ^ Brandstätter, p. 206

参考文献

  • Klaus Brandstätter: Die Tiroler Landesfürstinnen im 15. Jahrhundert. In: Julia Hörmann-Thurn und Taxis (Hrsg.): Margarete Maultasch. Zur Lebenswelt einer Landesfürstin und anderer Tiroler Frauen des Mittelalters. Vorträge der wissenschaftlichen Tagung im Südtiroler Landesmuseum für Kultur- und Landesgeschichte Schloss Tirol, 3. bis 4. November 2006 (= Schlern-Schriften. Bd. 339). Wagner, Innsbruck 2007, ISBN 3-7030-0438-X, pp. 175–217.



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