アンナ・フォン・デア・プファルツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/29 06:07 UTC 版)
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アンナ・フォン・デア・プファルツ アンナ・ファルツカー Anna von der Pfalz Anna Falcká |
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ローマ王妃 ボヘミア王妃 |
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在位 | 1349年6月17日 - 1353年2月2日 |
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出生 | 1329年9月26日 |
死去 | 1353年2月2日 |
配偶者 | ローマ皇帝・ボヘミア王カール4世 |
子女 | ヴェンツェル |
家名 | ヴィッテルスバッハ家 |
父親 | ライン宮中伯ルドルフ2世 |
母親 | アンナ・フォン・ケルンテン |
アンナ・フォン・デア・プファルツ(Anna von der Pfalz, 1329年9月26日 - 1353年2月2日)は、ローマ皇帝兼ボヘミア王カール4世の2度目の后。チェコ語名はアンナ・ファルツカー(Anna Falcká)。父はライン宮中伯ルドルフ2世、母はケルンテン公オットー3世の娘アンナ。
1349年、ライン川畔のバカラックという町でカール4世と結婚した。この結婚にはヴィッテルスバッハ家と対立関係にあった教皇クレメンス6世が反対していたが、カールはそれを押し切って結婚し、そのために教皇が1352年に死去するまで教皇とカールとの関係は冷却したままであったという[1]。同年にアーヘンでローマ王妃、ボヘミア王妃として戴冠した。翌1350年1月27日に息子ヴェンツェルを産んだが、ヴェンツェルは1351年12月30日に死去し、アンナも1353年2月2日に23歳で死去した。
同年5月27日、カール4世はシレジアのシフィドニツァ公ヘンリク2世の娘でヴェンツェルと婚約していたアンナと3度目の結婚をした。
脚注
- ^ 鈴本、p. 64
参考文献
- 鈴本達哉 『ルクセンブルク家の皇帝たち』 近代文芸社、1997年
固有名詞の分類
神聖ローマ皇后 |
リヒェンツァ・フォン・ノルトハイム マリア・レオポルディーネ・フォン・ティロル アンナ・フォン・デア・プファルツ エレオノーラ・ゴンザーガ ベアトリチェ・シフィドニツカ |
ボヘミアの王妃 |
エリーザベト・フォン・ルクセンブルク ヴィオラ・エルジュビェタ・チェシンスカ アンナ・フォン・デア・プファルツ エレオノーラ・ゴンザーガ ベアトリス・ド・ブルボン |
プファルツ家 |
ループレヒト・フォン・デア・プファルツ アンナ・フォン・デア・プファルツ |
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