ルクセンブルク家のカール4世との決着
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「ボルコ2世マウィ」の記事における「ルクセンブルク家のカール4世との決着」の解説
1350年の和約に調印した後、ボルコ2世はポーランド王カジミェシュ3世、ハンガリー王ラヨシュ1世との友好関係を犠牲にせぬよう注意深くではあるが、ルクセンブルク家への接近を始めた。1346年に唯一生き残っていた叔父のヤヴォル公ヘンリク1世が死ぬと、ボルコ2世はその遺領であるヤヴォル=ルヴヴェク公国を相続した。その直前、ボルコ2世の弟で名ばかりの共同統治者だったヘンリク2世が、一人娘のアンナを残して死んでいた。ボルコ2世はこの姪の後見人となり、ゆくゆくは彼女に自分の公国を相続させようと考えだした。 1350年12月13日、11歳のアンナと、カール4世の長男で僅か生後11か月のヴェンツェルの婚約が成立した。婚約時の契約によれば、アンナとヴェンツェルは、ボルコ2世が今後子供をもうけなかった場合(その見込みが強かった)、その遺領を相続することが取り決められた(但し、ボルコ2世の妻アグネスが夫の遺言によって公国を寡婦領として獲得した場合は、彼女の死後に公国を相続するという規定も盛り込まれていた)。しかし婚約から15日後の12月28日、ヴェンツェルが急死したため婚約は白紙に戻った。しかし、カール4世はボルコ2世の遺産を平和的な形で獲得する計画を、あきらめてはいなかった。 年が明けて1353年2月2日、妃アンナ・フォン・デア・プファルツが息子ヴェンツェルの後を追うように亡くなると、カール4世はボルコ2世の公国を入手するための次なる手を打った。妻の死後まもなく、カール4世はボルコ2世にその姪との再婚を打診し、婚約成立に際して以前の婚前契約を再発効させたのである。結婚式は1353年5月27日、ハンガリーの首都ブダ(アンナは父の死後、母の実家に引き取られていた)で執り行われた。参列者はオーストリア公アルブレヒト2世、ハンガリー王ラヨシュ1世、ブランデンブルク辺境伯ルートヴィヒ3世、ザクセン選帝侯ルドルフ1世のほか、ポーランド王カジミェシュ3世の使節、ヴェネツィア共和国の使節など錚々たる顔ぶれであった。
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