ルクセンブルク家のカール4世との決着とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ルクセンブルク家のカール4世との決着の意味・解説 

ルクセンブルク家のカール4世との決着

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 02:15 UTC 版)

ボルコ2世マウィ」の記事における「ルクセンブルク家のカール4世との決着」の解説

1350年和約調印した後、ボルコ2世ポーランドカジミェシュ3世ハンガリー王ラヨシュ1世との友好関係犠牲にせぬよう注意深くではあるが、ルクセンブルク家への接近始めた1346年唯一生き残っていた叔父ヤヴォルヘンリク1世が死ぬと、ボルコ2世はその遺領であるヤヴォル=ルヴヴェク公国相続した。その直前ボルコ2世の弟で名ばかり共同統治者だったヘンリク2世が、一人娘アンナ残して死んでいた。ボルコ2世はこの姪の後見人となり、ゆくゆくは女に自分公国相続させよう考えだした。 1350年12月13日11歳アンナと、カール4世長男で僅か生後11か月ヴェンツェル婚約成立した婚約時の契約によればアンナヴェンツェルは、ボルコ2世今後子供をもうけなかった場合(その見込み強かった)、その遺領相続することが取り決められた(但し、ボルコ2世の妻アグネスが夫の遺言によって公国寡婦領として獲得した場合は、彼女の死後公国相続するという規定盛り込まれていた)。しかし婚約から15日後の12月28日ヴェンツェル急死したため婚約白紙戻った。しかし、カール4世ボルコ2世遺産平和的な形で獲得する計画を、あきらめてはいなかった。 年が明けて1353年2月2日、妃アンナ・フォン・デア・プファルツ息子ヴェンツェル後を追うように亡くなると、カール4世ボルコ2世公国入手するための次なる手を打った。妻の死後まもなく、カール4世ボルコ2世にその姪との再婚打診し婚約成立に際して以前婚前契約再発効させたのである結婚式1353年5月27日ハンガリー首都ブダアンナ父の死後、母の実家引き取られていた)で執り行われた。参列者はオーストリアアルブレヒト2世ハンガリー王ラヨシュ1世ブランデンブルク辺境伯ルートヴィヒ3世ザクセン選帝侯ルドルフ1世のほか、ポーランドカジミェシュ3世使節ヴェネツィア共和国使節など錚々たる顔ぶれであった

※この「ルクセンブルク家のカール4世との決着」の解説は、「ボルコ2世マウィ」の解説の一部です。
「ルクセンブルク家のカール4世との決着」を含む「ボルコ2世マウィ」の記事については、「ボルコ2世マウィ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ルクセンブルク家のカール4世との決着」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ルクセンブルク家のカール4世との決着」の関連用語

ルクセンブルク家のカール4世との決着のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ルクセンブルク家のカール4世との決着のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのボルコ2世マウィ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS