ルクセンブルク協定の成立
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「第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償」の記事における「ルクセンブルク協定の成立」の解説
1951年9月21日、アデナウアー首相は、ナチス政権下において行ったユダヤ人迫害に対する責任を認め、ドイツ政府が一定額の補償を行うことを表明した。国内および海外からはおおむね歓迎されたが、イスラエルの外務省・通産省・野党・マスメディアからはドイツと交渉を行うこと自体に反対する動きが強かった。しかしイスラエル政府は交渉を行うことを選択した。 一時は交渉が中断される事態もあったが、1952年9月10日にイスラエルとドイツ連邦共和国の間の協定(英語版)(イスラエル条約、ルクセンブルク協定)を締結した。これにより、ドイツ政府はイスラエルの全般補償請求を認め、15年間でイスラエルに対して34億5000万ドルを現物により支払うことが合意された。同日にはユダヤ人対独物的請求会議(英語版)とハーグ議定書を調印し、個人的請求についての合意を行った。またイスラエルと交わした議定書により、ドイツ政府は連邦補償法(ドイツ語版)を将来公布する義務を課せられた。 この交渉はアデナウアー個人の道義心も動機の一つであったが、一方でイスラエル側がアメリカ国内のユダヤ人有力者を介して、アメリカ政府にドイツへの圧力をかけさせたことも成立の要因であったとされる。 また、当時イスラエルはアラブ諸国と対立しており、アラブ連盟は中立違反や当時イスラエルという国が存在していなかったこと、アラブ側こそがイスラエルに対する債権者であるとして、補償協定の締結に反対していた。ドイツは中立違反でないことを言明したが、アラブ側は国交断絶を含めた強硬な通告を行った。最終的に条約は締結され、アラブ諸国もそれ以上の措置には出ず、反発も収まっていった。
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