ルクセンブルク大公国の独立
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「ルクセンブルクの歴史」の記事における「ルクセンブルク大公国の独立」の解説
1839年にルクセンブルク大公国は独立を果たし、現在でも身近なルクセンブルクの生まれた日として祝われている。しかし、この独立には諸問題が含まれていた。第一に政治面、第二に経済面、第三に国民意識の問題である。第一は列強が承認していたことと、好ましい君主ではなかったがギヨーム1世の存在でなんとかクリアはしていた。しかし、経済問題は小国ルクセンブルクには緊急課題であり、国民意識もルクセンブルクが国として存在し続けるためには必要なものであった。 ルクセンブルクの指導者たちは経済面の課題をクリアするため、関税同盟を締結することを急いだ。その対象はプロイセン、ベルギーに絞られていたが、ベルギーという選択は君主ギヨーム1世が認めることができないものであった。しかし、国内には親ベルギーの意識があり、首都ルクセンブルク市に軍を駐屯させているプロイセンに対しては反感を持っていた。これらのルクセンブルク指導者らの行動にいらだっていたギヨーム1世は結局、独断でプロイセンと交渉、ドイツ関税同盟への加盟条約を調印したが、その批准前の1840年に自身はオランダ王とルクセンブルク大公を退位し、1840年10月に息子ギヨーム2世が後を継ぐこととなった。ギヨーム2世はベルギーやルクセンブルクに理解を示し、ドイツ関税同盟の白紙撤回を試みたが、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はこれを認めなかった。この脅迫を伴った回答に対し、ギヨーム2世はプロイセンとの衝突を避けるために不本意ながらも批准、ルクセンブルクはドイツ関税同盟に加盟した。 しかし、このドイツ関税同盟はルクセンブルクにとって有益な同盟であった。ルクセンブルクの皮革工業や金属工場はドイツ市場へ進出し、さらに国内で鉄鉱石が発見されたことにより、ルクセンブルクにおける重要産業となった。そのため、1864年、ドイツ関税同盟1回目の更新の際にはルクセンブルクは快く更新、後に長期契約に変更された。 ギヨーム2世は即位後、オランダとルクセンブルクの間にベルギーが存在するためルクセンブルクの統治が困難と考え、1841年6月、ルクセンブルク人によるルクセンブルクの統治を宣言した。そしてルクセンブルクはヨーロッパを席巻した1848年革命に乗じて、ギヨーム2世に議会制の導入を記した憲法の導入を要求、それまでの名士議会の改革が行われ、さらにベルギー憲法を参考にした憲法が制定された。そして納税有権者による直接選挙が行われ、1831年、ルクセンブルク初の内閣がウィルマルを首班として組閣された。しかし、1856年、ギヨーム2世の後を継いだギヨーム3世は権威主義者であったため、ルクセンブルクが所属するドイツ連邦の規則を利用して、ドイツ型の憲法をルクセンブルクに押し付けることに成功した。ただし、1868年にドイツ連邦が解体したことにより、ルクセンブルクの人々は行動を起こし、再び1848年に制定された憲法を取り戻した。この憲法は3度の改定が行われた上で現行の憲法として存続している。 1843年以降、ルクセンブルク政府は地方制度法、初等教育法、中等教育法を制定するなど法律の整備を行い、政治・司法はベルギーとフランス、経済・社会制度に関してはドイツをそれぞれ模範としてさらにルクセンブルクに適した制度へ変革した。さらにインフラ整備も行い、独立時には総延長177kmであった幹線道路が、1889年には総延長700kmまで整備された。鉄道は1857年にギヨーム鉄道会社を設立した後、東西南北を走る幹線を建設し、フランスと結ばれた。そしてフランス・アンリ社が第2の鉄道網の整備を行い、建設資金が不足すると考えられる路線については政府が資金を補填した。そのため、20世紀初頭までには総延長544kmまでに達した。
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