ナショナル・アイデンティティ
(国民意識 から転送)
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ナショナル・アイデンティティ(英語: National identity)あるいは国民的同一性とは、国民としての自己認識のことをさす。アイデンティティは、他者と比較しなければみえてくるものではなく、ナショナル・アイデンティティの場合、他者とは自国以外の他国のことを指す。ナショナル・アイデンティティと同様の意味で、国民間の連帯意識に着眼するとき「国民同胞感」という表現も散見される。
概要
ナショナル・アイデンティティは国民(または、ケベック州のような地区等では地域住民)が共通して認識する特徴によって構成される。特徴には以下のようなものがある。
自国を単一民族国家と認識する向きが一般的である国では、人類学的概念としてのエスニック・アイデンティティ(民族帰属意識、民族的同一性)と政治学的概念としてのナショナル・アイデンティティの両概念が同一視されやすい。それ以外の場合でも、エスニック・アイデンティティとナショナル・アイデンティティを弁別することは必ずしも容易ではない。また、エスニック・アイデンティティと同じように、ナショナル・アイデンティティの強さは、時代・地域・個人などによって様々である。
ナショナル・アイデンティティと移民
同化から多文化共生への政策シフトの流れ
エスニック・アイデンティティは、個人の祖先や民族的環境に基づき形成され、基本的に不変である。一方、ナショナル・アイデンティティは変化しうる。移民が受入国に同化し帰化する過程で、そのアイデンティティが変容する場合がある。ただし、その成否は、移民自身および受入国の文化的・思想的背景に左右される。さらに、移民の受入数も影響を及ぼす。移民が集中すれば「集住化」が進行し、在来文化への同化が困難となる。
そのなかで、西欧諸国では、1980年代から2010年代にかけて、アフリカや中東、旧植民地出身者の大量流入によって同化政策が機能不全に陥り、「多文化共生(英: multicultural coexistence)」へと政策転換が図られた。
この政策の下では、同化は前提とされず、多文化主義に基づき、複数の民族や文化を包摂する新たな国民同一性の形成が追求される。また、異文化を保持したままでも国籍取得が可能である。多くの非欧州系移民とその子孫は西欧に定住し、永住権や国籍を保有している。各国の国籍法は血統主義によらないため、移民2世以降にはほぼ自動的に国籍が付与される。加えて、重国籍が容認されているため、移民1世も国籍取得を選択しやすい。
こうした国籍取得が大規模に進む場合、社会的統合を維持するため、ナショナル・アイデンティティの再定義が求められ、従来の枠組みが急速に変容することとなる。
多文化共生に対する批判
先行して多文化共生を導入した国々では、従来の国民固有の伝統文化や大衆文化を放棄・否定する風潮が見られるようになった。一方で、ナショナル・アイデンティティの再定義に対する反発も生じており、右派ポピュリズムの台頭に象徴される。政治学者ジェローム・フルケ[1]は、国民的統合はすでに大きく損なわれており、ナショナル・アイデンティティに関する問題は、深刻かつ複雑な社会課題であると指摘している。
シンガポールは、マレー系・中華系・インド系の三大民族が互いに大きく融合することなく、それぞれのエスニック・アイデンティティを保持しつつ、共通のシンガポール国民としてのナショナル・アイデンティティを共有しているとされ、多文化共生の成功例として言及されることが多い。しかし、同国は都市国家で面積が非常に小さく、一人当たりGDPが極めて高いという特殊な条件下にある。また、強力な警察権による統治も、民族間の平和的共存を支える要因とされる。なお、建国時からの三大民族以外にも一定数の移民が存在するが、移民政策は非常に厳格であり、他民族の積極的な受け入れを推進しているわけではない。
脚注
- ^ Jérôme Fourquet著『L'Archipel français』(フランス列島)
関連項目
外部リンク
- 『ナショナルアイデンティティー』 - コトバンク
国民意識
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詳細は「サイクス・ピコ協定」を参照 ポーランドはポーランド分割で消滅してから1世紀以上経った後、復活した。セルビア王国は「協商国の小国」、人口比で最も多く損害を出した国として、多民族国家である新生セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後にユーゴスラヴィア王国に改名)の背骨になった。チェコスロバキアはボヘミア王国とハンガリー王国の一部を併合して独立した。ロシアはソビエト連邦になったが、フィンランドとバルト三国(エストニア、リトアニア、ラトビア)が独立した。オスマン帝国はトルコと中東のいくつかの国に取って代わられた。 イギリス帝国においては新しい国民意識が生まれた。オーストラリアとニュージーランドではガリポリの戦いが「砲火の洗礼」として知られるようになった。というのも、第一次世界大戦は両国の軍が初めて戦った大規模な戦争であり、オーストラリア軍がイギリス国王の臣下としてだけでなく、オーストラリア人としても戦った初の戦争であった。この日はオーストラリア・ニュージーランド軍団を記念するアンザック・デーとして祝われている。 カナダ師団が初めて独立部隊として戦ったヴィミ・リッジの戦い(英語版)の後、カナダ人はカナダを「火で鍛えられた」国と形容するようになった。「母国」がつまずいた戦場で勝利したことで、カナダ軍は初めてその貢献を国際的に認められた。カナダはイギリス帝国の自治領として参戦して、終戦まで同じ状態であったが、終戦の時点では独立性が高まった。1914年にイギリスが参戦したとき、自治領は自動的に戦争状態に入ったが、終戦時にはカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカがそれぞれ独自にヴェルサイユ条約に署名した。 オスマン帝国は第一次世界大戦までの数百年間、中東である程度の平和と安定を維持していた。しかし、オスマン政府が倒れたことで中東は権力の真空状態になり、領土と建国に関する様々な矛盾した主張がなされた。第一次世界大戦の戦勝国はすぐに国境線を策定したが、現地の住民には粗略な諮問しかしておらず、これらの国境は21世紀に入っても未解決のままである。第一次世界大戦でオスマン帝国が解体したことで、中東戦争など現代の中東の政治情勢が形作られたほか、水などの天然資源をめぐる紛争も引き起こした。 また、1917年ロシア革命による社会不安と広範囲にわたる暴力、そしてその直後のロシア内戦により、元ロシア帝国領(主にロシア革命後のウクライナ(英語版))で2千以上のポグロムが起きた。その結果、ユダヤ人6万から20万人が殺害された。 ギリシャは第一次世界大戦直後の希土戦争でムスタファ・ケマル・パシャ率いるトルコ国民軍と戦った後、ローザンヌ条約に基づき住民交換を行った。しかし、多くの文献によると、この時期のギリシャ人虐殺により数十万人のギリシャ人が死亡した。
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