国民感情との乖離
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 10:15 UTC 版)
この様な、過激な破壊行為による反対運動に対しては、主に警察力を用いた封じ込め策が図られたものの、中核派はそれを嘲笑うかの様に、1978年5月5日、京成電鉄が開港後の空港連絡用特急列車「スカイライナー」に投入するため新製し、車庫に留置されていた京成電鉄AE車を放火し、4両を全半焼させるという京成スカイライナー放火事件を引き起こした。また、5月19日にも京成本線5か所で同時多発列車妨害事件を引き起こした。 京成電鉄を筆頭に、地元の列車内では反対派が事実上占拠しており、車内では竹槍をかざしながら対立組織に対する「検問」が日常茶飯事に行われていた。地元住民の生活の足である『京成電鉄へのテロ行為』は、もはや空港反対運動の枠を超えた、地域の社会基盤そのものへの破壊活動であり、空港周辺部以外の京成線沿線の住民からの反対派への白眼視を招いたのみならず、この頃始まった新左翼そのものの衰退や、当初の目的である開港阻止が叶わなかったことで『成田空港粉砕』を唱え、より先鋭化の傾向を見せる反対派に対して、国民感情は加速度的に乖離していった。 日本国有鉄道が国鉄職員扱いで独自の警察機能を有する鉄道公安が存在していたものの、この当時は都道府県警察によって活動する、私鉄も警備対象である鉄道警察隊がまだ存在していなかった(鉄道警察隊は1987年4月に活動開始)ため、京成電鉄では千葉県警察と連携して警備を実施する方法以外はなかった。 さらに航空燃料の輸送を担った鹿島臨海鉄道鹿島臨港線では、線路に生コンクリートが流し込まれる、砂を積んだダンプカーが突入するなど鉄道施設の破壊、輸送の妨害を狙った事件が相次いだ。 その後の管制塔占拠事件も含めて、空港反対派と新左翼は同列視されるようになり、大半の国民が反対運動そのものを「特異な思想を持った限られた人間による反社会的テロ行為」として捉えるようになっていった。また、政府の断固たる姿勢と開港、運用の開始、そのために空港とその周辺地域に敷かれた厳重な警備態勢は、反対派の存在を多くの国民から有名無実化させていった。 しかも、農村部の過疎化が加速し始めた時期とも重なり、農業以外に地場産業を持たず、かつては当地の一大産業であった馬畜産・競走馬生産とそれの周辺産業も離れ始めた三里塚地域としても、このまま衰退するよりは、成田空港と共生する道を模索するべきという意見が、主流派を占めるようになっていった。 反対運動が始まった当初は、反対派の主張に対して同情的な面を見せることもあったマスメディアの多くからも、この頃には新左翼とテロリズムの影ばかりが目立つ状況に距離を置かれるようになるなど、反対派は孤立無援の状況へと徐々に追い込まれていった。 他方で、新左翼テロリストらの多くは尚も活発にテロを行い、後述するように反対派住民にとってさえ進めば地獄で退いても内ゲバが待つだけという泥沼化の事態に至り、当初は純粋に政府の一方的な空港建設計画の反対を企図して参加した住民の多くが心身を疲弊させるとともに、やがて反対運動それ自体が、日本の社会に対する説得力を失ってゆくこととなる[要出典]。 そして、成田空港問題とその泥沼化を他山の石とする形で、その後の全国各地の多くの高速道路・鉄道・原子力発電所・ダムなどへの反対運動では、自勢力拡大という目的を伏せて反対運動に接近する新左翼の活動家たちの存在を、反対運動を立ち上げた住民自身が、強く警戒するようになった。状況次第では、新左翼勢力と繋がりを持つ『市民運動家』や新左翼勢力を積極的に自陣営に引き入れようとする人物を反対運動の組織の主流派が自ら排除に動いたり、さらには本来は対立関係にある行政などとも連携して新左翼勢力やその関連人物を排除する、などといった動きも見られるようになっている。
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