サイクス・ピコ協定とは? わかりやすく解説

サイクスピコ‐きょうてい〔‐ケフテイ〕【サイクスピコ協定】

読み方:さいくすぴこきょうてい

Sykes-Picot Agreement第一次大戦中の1916年英国・フランス・ロシアが締結した戦後オスマン帝国領土分割に関する秘密協定。名称は、原案作成した英国中東専門家マークサイクスMark Sykes)と、フランス外交官フランソワ=ジョルジュ=ピコFrançois Georges-Picot)に由来。→フサインマクマホン協定バルフォア宣言

[補説] 旧オスマン帝国領のうち、現在のイラク南部・クウェート・サウジアラビア東部ヨルダンにあたる地域イギリスが、シリア・レバノン・イラク北部などをフランスが、黒海沿岸などをロシア勢力圏とすると約束しあった。パレスチナ英仏共同統治とされた。


サイクス・ピコ協定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/15 04:17 UTC 版)

サイクス・ピコ協定(サイクス・ピコきょうてい、: Sykes-Picot Agreement: Accords Sykes-Picot: Соглашение Сайкса — Пико)は、第一次世界大戦中の1916年5月16日にイギリスフランスロシア帝国の間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定。イギリスの中東専門家マーク・サイクス英語版 (Mark Sykes) とフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコ(François Marie Denis Georges-Picot)によって原案が作成され、この名がついた。

概要

1915年11月頃から 連合国側は大戦後のオスマン帝国における勢力分割について秘密裏に交渉が始まり、イギリスのマーク・サイクスとフランスのジョルジュ=ピコによって案の作成が進められた。その後、ロシア帝国外相セルゲイ・サゾーノフも加わってペトログラードで秘密協定が結ばれた。フサインの蜂起直前の1916年5月16日のことである。

内容は以下の通り。

この協定は、イギリスが中東のアラブ国家独立を約束したフサイン・マクマホン協定やイギリスがパレスチナにおけるユダヤ人居住地を明記したバルフォア宣言 (1917年11月)とイギリスが相矛盾する三枚舌外交をしたとして批判された。

1917年にロシア革命が起こると、同年11月にウラジーミル・レーニン政権によって旧ロシア帝国のサイクス・ピコ協定の秘密外交が明らかにされ、アラブの反発を強めることになった。

フサインの子ファイサル率いるアラブ軍は、1918年9月にシリアのダマスカス入城を果たしたが、この地を自国の勢力範囲と考えるフランスの反対を受け、1920年7月にダマスカスから追放された。フサイン・マクマホン書簡でのアラブ人国家の範囲は、ホムスハマーアレッポ、ダマスカスを結ぶ線の東側(内陸側)ということになっていたが、1920年4月に開かれたサン・レモ会議英語版ではこの地域のイギリス・フランスの勢力分割(=新国家の設立に当たってどちらの国が指導的役割を果たすかということ)がほぼ確定していた。

1921年8月23日、ファイサルはイギリスからイラク王に据えられた。また、反仏運動の指導者であったファイサルの兄アブドゥッラー1世(アブドゥッラー・ビン・フサイン)はイギリスからトランスヨルダンの首長に据えられ、これは現在のヨルダンとなっている。つまるところ、フランス勢力圏下にあったイラク北部やシリア近辺を除いて、フサイン・マクマホン書簡の約束は概ね守られた。

サイクス・ピコ協定。濃い赤はイギリス直接統治、濃い青はフランス直接統治、薄い赤はイギリスの、薄い青はフランスの勢力圏。紫(パレスチナ)は共同統治領

フサインが打ち立てたヒジャーズ王国は、その後、フサインがカリフを称したことで、イスラム教指導者層の反発も招き、ナジュドイブン=サウードによって1925年にヒジャーズ王国は倒された。イブン=サウードは後にサウジアラビアを創始し、初代国王となった。

第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国は解体し、トルコ革命を経て、現在のトルコ共和国へと再生した。イギリスとフランスの中東分割は、1920年4月のサン・レモ会議英語版でほぼ確定していたが、1923年にトルコ共和国がローザンヌ条約に調印したことで正式に分割された。

サイクス・ピコ協定や以後の分割交渉による線引きは、後のこの地域の国境にも影響している。フランスの勢力範囲となったシリア地方からは後にレバノンシリアが独立し、イギリスの勢力範囲からは後にイラク、クウェートなどが独立した。地域によっては人工的に引かれた不自然な国境線となっている。

その後、一連の矛盾外交によって生じたパレスチナ問題や、1921年3月21日カイロ会議ではガートルード・ベルの意見が採用されて現在も不自然な国境で分断されているクルド人問題など多くの問題が生じた。シリア東部からイラク西部にかけて勢力を拡大している過激派組織ISIL(イスラム国)も、サイクス・ピコ協定に怒りを抱いており、武装闘争を続ける動機の一つとされる[要検証][1]

その他

脚注

関連書籍

  • 池内恵『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』(新潮選書)

関連項目


サイクス・ピコ協定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 00:12 UTC 版)

三枚舌外交」の記事における「サイクス・ピコ協定」の解説

イギリスフランスロシアの間で結ばれた秘密協定イギリス中東専門家マーク・サイクス(英語版)とフランス外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコによって原案作成された。 オスマン帝国領土を以下のように規定していた。 シリアアナトリア南部イラクモスル地区フランス勢力範囲 シリア南部と南メソポタミア現在のイラク大半)をイギリス勢力範囲狭義の)パレスチナ国際管理イギリス事実上同盟国大国であるフランス利益重んじることを目的としていた。しかしケマル・アタチュルクによってトルコ共和国新しく建てられたため、南のイギリス勢力圏との間に押し込まれ格好となり、結果としてフランス大きな負担強いられたうえに、パレスチナとの国境画定問題生じて1930年代までしばしば国境付近小規模な戦闘発生している。 1917年ロシア革命が起こると、同年11月革命政府によって旧ロシア帝国のサイクス・ピコ協定の秘密外交明らかにされた。

※この「サイクス・ピコ協定」の解説は、「三枚舌外交」の解説の一部です。
「サイクス・ピコ協定」を含む「三枚舌外交」の記事については、「三枚舌外交」の概要を参照ください。

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