1673年の講和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 10:18 UTC 版)
フリードリヒ・ヴィルヘルムは、その間にヴェストファーレンの領地が敵軍に占領されたことを知った。レオポルト1世には見捨てられ、オランダもブランデンブルク軍の実質的な援助を得られなかったため資金援助を拒否した。その結果、フリードリヒ・ヴィルヘルムはやむを得ずフランスとフォッセム条約の締結を決意した。彼はオランダにこれ以上肩入れしないことを約束したが、フランスが神聖ローマ帝国を攻撃する場合にはこれを防衛するとした。フランスはヴェーゼル要塞(英語版)、リップシュタット、レース(英語版)の要塞を除いてクレーフェ公国、ミンデン侯領(ドイツ語版)、マルク伯領、ラーヴェンスベルク伯領の全ての占領地から撤退しなくてはならなかった。さらに同国はフリードリヒ・ヴィルヘルムに80万リーブルの支払いも約束したが、結局支払うことはなかった。
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