1673年~1690年: 音楽家としての活躍(ウィーン、アイゼナハ、エアフルト)
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「ヨハン・パッヘルベル」の記事における「1673年~1690年: 音楽家としての活躍(ウィーン、アイゼナハ、エアフルト)」の解説
師のプレンツは1672年にアイヒシュテットに発った。この時期のパッヘルベルについてはほとんど文献に記されておらず、彼がその年のうちにその地を離れたのか、それとも翌1673年までレーゲンスブルクに留まったのかは分かっていない。しかし、いずれにせよ1673年にはウィーンに移り住んでおり、パッヘルベルはそこで有名な聖シュテファン大聖堂の次席オルガン奏者となった。当時のウィーンは巨大なハプスブルク帝国の中心であり、文化的にも重要な土地であった。また、当時は主にイタリア風の作品が好まれるような風潮があった。著名なコスモポリタリアンの作曲家たちもそこで活動しており、ヨーロッパ各地の音楽同士の交流が盛んに行われていた。特筆すべき人物としては、1657年までウィーンで宮廷オルガニストを務めたヨハン・ヤーコプ・フローベルガー(アレッサンドロ・ポリエッティの前任者)や、当時その地に住んでいたゲオルク・ムッファトが、そして特に重要な人物として、1673年にウィーンに移住してきたヨハン・カスパール・ケルルがいる。ケルルはウィーンにいる間、彼の流れを汲むパッヘルベルと交流が、あるいは直に彼に音楽を教えてさえいたかもしれない。パッヘルベルはウィーンに5年間滞在し、彼が育った地の厳格なルター派とは対照的な、南ドイツとイタリアのカトリックの音楽を学んだ。青年時代にシュテファン大聖堂の音楽家を務め、当時の主要な作曲家の音楽に触れていたという点では、パッヘルベルはハイドンと似ていると言える。 1677年、パッヘルベルはアイゼナハに移り、ザクセン=アイゼナハ公のヨハン・ゲオルク1世に仕えていた宮廷楽長、ダニエル・エーベルリンの下で宮廷オルガン奏者の職に就き、宮廷とゲオルク教会での礼拝に携わった(なお、エーベルリンはパッヘルベルと同郷でニュルンベルクの出身であった)。アイゼナハは、J.S.バッハの父ヨハン・アンブロジウス・バッハの故郷であり、パッヘルベルはそこでバッハ家の人々と出会い、アンブロジウス・バッハと親しくなり、彼の子供たちの家庭教師を任せられた。しかし、パッヘルベルのアイゼナハでの生活は、わずか1年で終わることになった。1678年、ヨハン・ゲオルク1世の弟ベルンハルト2世が亡くなり、その喪に服している間に宮廷音楽家の大幅削減が行われ、パッヘルベルもまた職を失った。彼はエーベルリンに推薦状を書いてもらった。その推薦状の中でエーベルリンは、パッヘルベルについて「完璧ですばらしい才能を持った人物」—einen perfecten und raren Virtuosen と評している。その紹介状とともに、パッヘルベルは1678年5月18日にアイゼナハを後にした。 1678年の6月、パッヘルベルはヨハン・エフラーに代わりエアフルトのプレディガー教会(伝道者教会)のオルガン奏者として雇われた。エアフルトでもバッハ家は有名で、パッヘルベルと彼らとの交友はここでも続いた。(なお、その地のオルガン奏者たちは皆 "Bachs" と後に呼ばれるようになるほどであった) パッヘルベルは、ヨハン・アンブロジウス・バッハの娘ヨハンナ・ユーディタの名付け親となり、ヨハン・クリストフ・バッハ(1671–1721年、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの長兄)の家庭教師を務め、ヨハン・クリスティアン・バッハ(1640-1682年)の家に住んでいた。エアフルトでの滞在は12年間におよび、その間に彼は、当時のドイツにおける主要なオルガン作曲家の一人に数えられるほどの地位を確立した。当時の作曲の仕事は主に礼拝用の前奏曲であったため、コラール前奏曲はパッヘルベルのエアフルト時代で最も特徴的な作品のひとつとなった。彼の仕事としては他にオルガンのメンテナンスがあり、より重要なことに、作曲家・オルガン奏者としての進歩を示すため毎年大曲の作曲を行わねばならず、しかも前年の作品よりも優れたものが求められた。 エアフルトでの家主であったヨハン・クリスティアン・バッハは1682年に亡くなった。その2年後の1684年6月、パッヘルベルはJ.C.バッハの未亡人からその家("Zur silbernen Tasche" と呼ばれていた。現在の Junkersand 1)を買い取った。1686年、ゾンダースハウゼンの三位一体教会(Trinitatiskirche) からオルガン奏者の職を提示された。パッヘルベルも最初は招待に応じたものの、現存する自筆の手紙によれば、彼は長い交渉の末に、申し出を断らなくてはならなかった。彼は、求人があった際にはかならず事前にエアフルトの長老たちと教会の権力者たちに意見を求めるよう要求されていたようである。この問題はパッヘルベルの評判に傷をつけることなく穏やかに解決されたようで、彼は昇給となり、さらに4年間エアフルトに留まることになった。 パッヘルベルはエアフルトで二回結婚している。一回目の結婚は1681年10月25日、エアフルト市長の娘、バルバラ・ガブラーとで、式は花嫁の実家で挙げられた。しかし妻と一人息子は1683年10月に伝染病で亡くなっている。パッヘルベルの初の出版物であるコラール変奏曲集『音楽による"死への思い"』("Musicalische Sterbens-Gedancken"、エアフルト、1683年)は、おそらくこの出来事の影響を受けていると思われる。 妻子を亡くした10ヵ月後の1684年8月24日に、パッヘルベルは二回目の結婚をしている。相手は銅器職人の娘ユーディト (Judith Drommer (Trummert)) である。二人は5男2女を儲け、息子たちのうち2人、ヴィルヘルム・ヒエロニムスとカール・テオドールはオルガン奏者になっており、ヴィルヘルムは聖ヤーコプ教会(ニュルンベルク)、聖ゼーバルドゥス教会のオルガン奏者を歴任、カールは1734年にアメリカ植民地に渡り、ボストン、ニューヨークなどを経てチャールストン (サウスカロライナ州)の聖フィリップ教会のオルガン奏者となり、ドイツ音楽の普及に貢献した(英語名チャールズ・セオドア・パッケルベルの名で知られる)。息子のヨハン・ミヒャエルは、ニュルンベルクで楽器職人となり、ロンドンやジャマイカを回った。2人の娘のうち、アマーリアは画家・版画家として評価された。
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