1673年~1690年: 音楽家としての活躍とは? わかりやすく解説

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1673年~1690年: 音楽家としての活躍(ウィーン、アイゼナハ、エアフルト)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 07:22 UTC 版)

ヨハン・パッヘルベル」の記事における「1673年~1690年: 音楽家としての活躍(ウィーンアイゼナハエアフルト)」の解説

師のプレンツは1672年アイヒシュテット発った。この時期パッヘルベルについてはほとんど文献記されておらず、彼がその年のうちにその地を離れたのか、それとも翌1673年までレーゲンスブルクに留まったのかは分かっていない。しかし、いずれにせよ1673年にはウィーン移り住んでおり、パッヘルベルはそこで有名な聖シュテファン大聖堂次席オルガン奏者となった当時ウィーン巨大なハプスブルク帝国中心であり、文化的に重要な土地であったまた、当時は主にイタリア風の作品好まれるような風潮があった。著名なコスモポリタリアンの作曲家たちもそこで活動しており、ヨーロッパ各地音楽同士交流盛んに行われていた。特筆すべき人物としては、1657年までウィーン宮廷オルガニスト務めたヨハン・ヤーコプ・フローベルガー(アレッサンドロ・ポリエッティの前任者)や、当時その地に住んでいたゲオルク・ムッファトが、そして特に重要な人物として、1673年ウィーン移住してきたヨハン・カスパール・ケルルがいる。ケルルはウィーンにいる間、彼の流れを汲むパッヘルベル交流が、あるいは直に彼に音楽教えてさえいたかもしれないパッヘルベルウィーン5年滞在し、彼が育った地の厳格なルター派とは対照的な南ドイツイタリアカトリック音楽学んだ青年時代シュテファン大聖堂音楽家務め当時主要な作曲家音楽触れていたという点では、パッヘルベルハイドン似ていると言える1677年パッヘルベルアイゼナハ移りザクセン=アイゼナハ公のヨハン・ゲオルク1世仕えていた宮廷楽長、ダニエル・エーベルリンの下で宮廷オルガン奏者の職に就き宮廷ゲオルク教会での礼拝携わった(なお、エーベルリンはパッヘルベル同郷ニュルンベルク出身であった)。アイゼナハは、J.S.バッハの父ヨハン・アンブロジウス・バッハ故郷であり、パッヘルベルはそこでバッハ家人々出会い、アンブロジウス・バッハと親しくなり、彼の子供たちの家庭教師任せられた。しかし、パッヘルベルアイゼナハでの生活は、わずか1年で終わることになった1678年ヨハン・ゲオルク1世の弟ベルンハルト2世亡くなり、その喪に服している間に宮廷音楽家の大幅削減が行われ、パッヘルベルもまた職を失った。彼はエーベルリンに推薦状書いてもらった。その推薦状の中でエーベルリンは、パッヘルベルについて「完璧すばらし才能持った人物」—einen perfecten und raren Virtuosen と評している。その紹介状とともにパッヘルベル1678年5月18日アイゼナハを後にした。 1678年6月パッヘルベルはヨハン・エフラーに代わりエアフルトのプレディガー教会伝道者教会)のオルガン奏者として雇われた。エアフルトでもバッハ家は有名で、パッヘルベルと彼らとの交友はここでも続いた。(なお、その地のオルガン奏者たちは皆 "Bachs" と後に呼ばれるうになるほどであったパッヘルベルは、ヨハン・アンブロジウス・バッハの娘ヨハンナ・ユーディタの名付け親となり、ヨハン・クリストフ・バッハ(1671–1721年ヨハン・ゼバスティアン・バッハ長兄)の家庭教師務めヨハン・クリスティアン・バッハ(1640-1682年)の家に住んでいた。エアフルトでの滞在12年間におよび、その間に彼は、当時ドイツにおける主要なオルガン作曲家一人数えられるほどの地位確立した当時作曲仕事は主に礼拝用の前奏曲であったため、コラール前奏曲パッヘルベルエアフルト時代で最も特徴的な作品のひとつとなった彼の仕事としては他にオルガンメンテナンスがあり、より重要なことに、作曲家オルガン奏者としての進歩を示すため毎年大曲作曲を行わねばならず、しかも前年作品よりも優れたものが求められた。 エアフルトでの家主であったヨハン・クリスティアン・バッハ1682年亡くなったその2年後の1684年6月パッヘルベルはJ.C.バッハ未亡人からその家("Zur silbernen Tasche" と呼ばれていた。現在の Junkersand 1)を買い取った1686年、ゾンダースハウゼンの三位一体教会(Trinitatiskirche) からオルガン奏者の職を提示された。パッヘルベル最初招待応じたものの、現存する自筆の手によれば、彼は長い交渉の末に、申し出を断らなくてはならなかった。彼は、求人があった際にはかならず事前にエアフルト長老たち教会権力者たちに意見求めるよう要求されていたようである。この問題パッヘルベル評判に傷をつけることなく穏やかに解決されたようで、彼は昇給となり、さらに4年エアフルト留まることになったパッヘルベルエアフルトで二回結婚している。一回目の結婚1681年10月25日エアフルト市長の娘、バルバラ・ガブラーとで、式は花嫁実家挙げられた。しかし妻と一人息子1683年10月伝染病亡くなっている。パッヘルベルの初の出版物であるコラール変奏曲集音楽による"死への思い"』("Musicalische Sterbens-Gedancken"、エアフルト1683年)は、おそらくこの出来事影響受けていると思われる妻子亡くした10ヵ月後の1684年8月24日に、パッヘルベルは二回目結婚をしている。相手銅器職人の娘ユーディト (Judith Drommer (Trummert)) である。二人は5男2女を儲け息子たちのうち2人、ヴィルヘルム・ヒエロニムスとカール・テオドールオルガン奏者になっており、ヴィルヘルムは聖ヤーコプ教会ニュルンベルク)、聖ゼーバルドゥス教会オルガン奏者歴任カール1734年アメリカ植民地渡りボストンニューヨークなどを経てチャールストン (サウスカロライナ州)の聖フィリップ教会オルガン奏者となり、ドイツ音楽普及貢献した英語名チャールズ・セオドア・パッケルベルの名で知られる)。息子のヨハン・ミヒャエルは、ニュルンベルク楽器職人となり、ロンドンジャマイカ回った2人の娘のうち、アマーリア画家版画家として評価された。

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