1671 – 1849年
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「バードシャーヒー・モスク」の記事における「1671 – 1849年」の解説
同モスクは、ムガル帝国の第6代君主であるアウラングゼーブによって建設された。彼は、先代の君主たちとは異なり、芸術や建築のパトロンではなかった。同モスクは、1671年から73年にかけて、フィダイ・カーン・コカ (Fidai Khan Koka) の指導の下で建設された。 1799年7月7日、スケルチャキア・ミスル(英語版)の首長ランジート・シングによるシク教徒の軍隊が、ラホールを支配下に置いた。街の占領の後、ランジート・シングが同モスクの中庭を軍馬用の馬小屋として、中庭を取り囲む80の小部屋 (hujras) を兵舎と倉庫としてそれぞれ使用したため、モスクの神聖性は損なわれた。ランジート・シングはまた、モスクに隣接したハズーリー・バーグ庭園(英語版)を公的な宮殿として使用した。 第一次シク戦争前の1841年、ランジート・シングの息子シェール・シングは、モスクの大ミナレットを軽砲 (zamburahs) の設置場所として利用した。軽砲は、隣接するラホール城に籠城したチャーンド・カウルの支持者を砲撃するために使用された。ラホール城は、この砲撃で大きなダメージを負った。この砲撃の一つによって謁見の間 (Diwan-e-Aam) が破壊された。謁見の間は、後にイギリス領インド帝国によって再建されるものの、以前の状態通りには戻らなかった。この間、シェール・シングの軍隊に雇われていたフランス人騎兵将校ヘンリー・ド・ラ・ルーシュ (Henri De la Rouche)は、一時的に弾薬を貯蔵するため、同モスクからラホール城へと繋がるトンネルを利用した。 イギリス領インド帝国期の1849年、イギリスは引き続き同モスクと隣接するラホール城を軍の駐屯地として使用した。巨大な中庭の三方を取り囲む壁の中に設置された80の小部屋 (hujras) は、本来は学習部屋であり、ランジート・シングが統治するシク王国の軍が兵舎や倉庫として使用された。イギリスは、反イギリス活動に使用されることを防ぐために小部屋を破壊して、オープン・アーケード (dalans) の様式に建て替えた。
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