占領の後
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「セントビンセント占領」の記事における「占領の後」の解説
デュ・ルマンがセントビンセント島占領に成功した後、デスタンはその全艦隊を引き連れて6月末にバルバドスに向かったが、風向きが悪くてはかばかしく進めなかった。デスタンはその作戦を諦め、その代わりにグレナダに向かい、7月5日にそこを占領した。バイロン提督は7月1日にセントビンセント島が占領されたことを知らされ、グレナダが攻撃されたことを知ると、グレナダ島奪還のための部隊の準備をした。バイロンは即座にグレナダに向かい、7月6日朝に到着したその艦隊はグレナダ沖でフランス艦隊と交戦したが、デスタン艦隊がバイロン艦隊の統率されていない攻撃を凌いだ。グレナダ島とセントビンセント島は終戦までフランス支配に置かれ、1783年のパリ条約の条件によってイギリスに戻された。 イギリス海軍のジョージ・ブリッジス・ロドニー提督は1780年にセントビンセント島を取り戻そうとした。記録破りの最悪のハリケーン・シーズンとなった後でカリブ海に到着し、西インド諸島中に大災害を引き起こした10月のハリケーンで、セントビンセント島の守備隊が壊滅的な被害を受けたという噂を耳にして行動を起こし、10艦の戦列艦とジョン・ボーン将軍の指揮する250名の兵士を乗せてセントビンセント島に向かった。セントビンセント島は大きな被害を蒙っていた(キングストンの建物大半が破壊された)が、キングストンの守備隊は良い状態にあり、1,000名のフランス兵とカリブ族兵士が守っていた。ボーンの部隊が上陸したがその状態では進むのが難しいと分かり、僅か1日後には船に戻った。 イーサリントン中佐は1781年にセントルシアで、この侵略を受けた時の行動について審問を受け、容疑を晴らした。この島に長く住んでいたモリス総督はその行動について審問を要求し、新聞など出版物で誤解されて伝えられていると主張し、やはり無罪となった。モリスは二度と島に帰れず、セントビンセント島の防御に金を消費したことなどから負った負債のために、イングランドのキングスベンチ刑務所で7年間を過ごした1789年に死んだ。 ブラック・カリブ族はセントビンセント島をフランスが占領している間にイギリス人開拓者に積極的な嫌がらせを続けた。時には流血沙汰を減らすためにフランス軍が干渉する必要があった。この島がイギリス支配に戻った後、1790年代までイギリスとカリブ族の間には不安定な平和が続き、ついにカリブ族が第二次カリブ戦争に立ち上がった。これはフランス革命戦争の海外波及の一部となった。その後カリブ族はイギリスによって現在のホンジュラス海岸沖にあるロアタン島に移住させられた。現在その子孫はガリフナ族と呼ばれている。セントビンセント島は1979年にセントビンセントおよびグレナディーン諸島としてイギリスからの独立を果たした。
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占領の後
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「グレナダ占領 (1779年)」の記事における「占領の後」の解説
詳細は「グレナダの海戦」を参照 バイロン提督は7月1日にセントビンセント島が占領されたことを知らされ、さらにグレナダが攻撃されたのを知った時は、セントビンセント島を取り返しに行くところだった。即座にグレナダに進路を変え、7月6日朝に到着した。デスタンは7月5日にバイロンの意図するところを知らされ、兵士を乗艦させ、6日の午前4時に碇を上げた。両艦隊はグレナダ島沖で交戦し、デスタン艦隊がバイロンの艦隊の統率されていない攻撃を凌いだ。その後しばらくの間、西インド諸島の海域では大きな戦闘が無く、デスタンは北に向かって、9月にイギリスの支配するジョージア州サバンナを囲んだが、包囲戦は失敗した。 グラナダを占領し、バイロン艦隊を破ったデスタンの成功によって、本国で多くの人気を博した。劇作家かつ役者のピエール=ジャーマン・パリソーが、占領の様子を再現する『ヴニ、ヴィディ、ヴィシ、ウー・ラ・プリズ・ド・グラナダ』と題する戯曲を書いた。デスタンがこの人気作を見ることはなかったが、アメリカのジョン・ポール・ジョーンズがパリを訪れたときに観劇した。 フランスはグレナダを占領している間に、リッチモンド・ヒルに一連の砦建設を始めた。自軍の行ったような攻撃に対抗して守るために、大砲は海よりも陸の方を向いておかれた。この防御施設は1783年以降にイギリス軍によって完成された。 グレナダ島とセントビンセント島は、アメリカ独立戦争の終戦までフランスの支配下に留まり、1783年のパリ条約の条件によってイギリスの支配に戻された。デスタンが総督に指名したド・デュラー伯爵の支配は、イギリス住民に拠れば、厳しく抑圧的なものだったとされている。イギリスが支配権を取り戻すと、圧倒的に多いカトリック教徒のフランス語を話す住民に辛く当たり、不満を抱いた住民をトリニダード島に追い出した。グレナダ住民社会の間での宗教や文化の違いが、1795年から1796年の住民蜂起、フェドン反乱につながり、あやうく成功するところまでいった。
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