占領の終わりにつながる出来事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 23:44 UTC 版)
「日本軍によるグアムの占領」の記事における「占領の終わりにつながる出来事」の解説
1944年の初め、日本の戦況は悪化していた。アメリカの反転攻勢により日本軍はグアムまで後退していた。日本軍の現地部隊は新たに厳格な軍政「カイコンタイ」を敷いた。これにより、社会活動の中止、学校の閉鎖など自由な活動が制限されるとともに、チャモロの男性、女性、そして12歳以上の子供が徴用され、滑走路、防衛施設、シェルターケーブ(壕)の建設や修理に従事した。この多くはグアムのWar in the Pacific National Historical Parkの境界内にある。bayonet pointで労働していたチャモロ人は酷使され、防衛施設完成後に処刑されるケースもあった。その後、予告なしに日本軍は現地民に収容所への移動を命じたため、1万人から1万5千人のチャモロ人がグアム中部・南部のジャングルで許可された一部の持ち物のみで収容所へ行進することを余儀なくされた。収容所は粗末で、食料は少なく、衛生設備がなかったため、暮らしは悲惨であったとされる。しかし、結果的には収容所生活を送った人々は日米の激しい戦闘に巻き込まれずに済んだという点で幸運であった。というのも、もし多くのチャモロ人がなお従来の居住地で暮らし続けていれば、アメリカ空軍の苛烈な空爆によって発生する誤爆と満身創痍で抵抗する日本軍の板ばさみにより死んでいただろうからである。
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