占領の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 15:31 UTC 版)
「ナチス・ドイツによるチャンネル諸島占領」の記事における「占領の開始」の解説
1940年5月のナチス・ドイツのフランス侵攻とフランスの敗北によって、フランス本土に極めて近いチャンネル諸島には、ドイツの軍事的脅威が迫ることとなった。イギリスの軍指導部は戦略的理由によってチャンネル諸島を防衛しないことを決めた。6月には9万7千人の島民のうち、3万1千人が自主避難を行っている。チャンネル諸島の各政府は非常事態政府への改編が行われ、占領に備えることになった。 6月16日、チャンネル諸島の行政機関は無防備都市宣言を行ったが、ドイツ側には認識されておらず、6月28日にはガーンジー島とジャージー島の港湾が爆撃された。セント・ピーター・ポートでは、イギリス本土への食料輸出のために止まっていたトラックが軍事用と誤解されたために爆撃され、44名の島民が死亡している。ドイツ国防軍はチャンネル諸島を占領するために、二個空挺大隊による占領計画を立てていた。6月30日、国防軍の第3航空艦隊に所属するLiebe-Pieteritz大尉が偵察のためにガーンジー島郊外の空港に降り立ち、島に軍隊がいないことを確認した。大尉の報告を受けて上陸したドイツ軍兵士たちに、島の警察官は「チャンネル島が『陛下の命令によって』無防備都市である」という書面を手渡した。7月1日、ドイツ軍はチャンネル諸島はドイツ軍の占領下にあると宣言し 、7月4日に公式に降伏した。
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