臨時政府の成立と占領の開始
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「連合軍軍政期 (オーストリア)」の記事における「臨時政府の成立と占領の開始」の解説
戦争の終結が近づく1944年末になると、オーストリアでは抵抗運動を行っていたものから政党を設立する動きが生まれた。1945年3月には赤軍が国境を越え、4月1日にはウィーンに到達、4月10日には中心部に到達した(ウィーン攻勢)。同日、赤軍司令官フョードル・トルブーヒンが市庁舎においてナチス時代の措置の無効と、独立オーストリアの再建が連合国の目標であると宣言した。4月14日にはオーストリア社会党、4月17日にはオーストリア国民党が成立した。4月21日には元首相カール・レンナーがウィーン入りし、社会党・人民党・オーストリア共産党の三党で臨時政府設立のための協議をおこなわせた。ウィーンは占領された。その2週間後、西側連合軍はオーストリアに到着した。 1945年4月27日、レンナーと三党の代表者の名義で、1938年のオーストリア併合(アンシュルス)は「外部からの軍事的脅迫と少数のナチ・ファシストによる反逆的テロル」によるものであったため無効とし、1920年のオーストリア第一共和国憲法に基づく共和国の再建が宣言され(オーストリア独立宣言(ドイツ語版))、同時に臨時政府が組織された。臨時政府の内閣はレンナーを首相とし、社会党のアードルフ・シェルフ、国民党のフィグル、共産党のコプレニヒら3人の無任所大臣で構成されており、内務・教育のポストは共産党、社会政策は社会党、商工・運輸は国民党に配分されていた。また同日には国家首相の告示(ドイツ語: Kundmachung des Staatskanzlers)が行われ、直ちに自由な選挙による国家の代表を選出する準備に入ることが宣言されている。 モスクワ宣言に基づき、オーストリア国土とウィーンは連合国により占領され、軍政を受けることとなった。1945年7月9日の連合国協定において、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4連合国による4つの占領区域に分けられ軍政が行われることとなった。連合国によって承認された政府ができるまで、占領4か国の代表によって構成される連合国オーストリア委員会によって行われることとなった。 1945年9月11日、連合国オーストリア委員会の傘下にある連合国理事会がオーストリアの最高権力を受け継いだ。10月20日の連合国司令官のレンナー宛覚書によって、臨時政府の権限が連合国によって承認された。新たに成立したオーストリアの国家機関は連合国の管理に服し、集団的準保護国(kollektiv-Quasiprotektorat)に匹敵する「制限的な主権を有する国家」となった。戦後初の議会選挙が1945年11月25日に行われ、議会での投票の結果、レンナーは第二共和国における初代連邦大統領に選出された。
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