臨時政府と再度の渡米
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1919年4月10日、上海で結成された「大韓民国臨時政府」(略称:臨政)の初代大総理に就任し、9月11日からは臨時政府大統領となった。上海臨時政府は、短期的にではあれ、朝鮮独立のための統一戦線として左右両翼を糾合できたという点で独立運動における画期的な存在であった。これまで独立運動に於いてそれまでほぼ無名であった李が大統領に選ばれたのは、第一次世界大戦終結に際して民族自決をはじめとした「十四か条の平和原則」を唱えたアメリカ合衆国のウィルソン大統領と人脈があると考えられ、さらにかつての大韓帝国皇帝高宗とも繋がりがあるという事が指摘されている。実際、同時期に成立していた各種の朝鮮独立運動の「臨時政府」において、李はリストのナンバー1か2に必ず名を連ねている。 一方で李は、国際連盟による朝鮮の委任統治を提案していた。これは独立達成のためには委任統治というステップを踏むことが必要であるという考えであったが、これは左派の李東輝らの強い反発を受け、「第二の李完用」であると非難された。承晩は完全に政府から浮き上がり、1920年12月8日に上海に入ったばかりであったが、1921年5月に上海を去った。やがて弾劾を受け、1924年からは1925年3月21日には、大統領職も追われている。以降はアメリカでのロビー活動に専念することになった。李承晩は「日本はいずれアメリカと敵対する、その時には朝鮮を戦友とするべきだ」、「日本の侵略を容認して朝鮮を見殺しにしたアメリカも同罪である」(桂・タフト協定)などと強い調子でアメリカの支援を要請したが、アメリカの支援は得られなかった。 1944年9月、カイロ宣言の「適切な手続きにより (in due course)」朝鮮の自由と独立を保障するとした文言に「なぜ彼ら(連合国)は、われわれを実質的に助けたり激励したりして、自分たちの真心を示そうとしないのか」と懸念を感じ、米国の官僚に対し「われわれ朝鮮は、国際社会で泣いている子どもと同じだ。われわれが望むのは、正義と公正だけだ。泣く子は、時や場所をわきまえない。朝鮮は、諸大国が集まりさえすれば、時も場所もわきまえることなく泣き立てるだろう」と語った。
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