臨時政府と再度の渡米とは? わかりやすく解説

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臨時政府と再度の渡米

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:23 UTC 版)

李承晩」の記事における「臨時政府と再度の渡米」の解説

1919年4月10日上海結成された「大韓民国臨時政府」(略称:臨政)の初代総理就任し9月11日からは臨時政府大統領となった上海臨時政府は、短期的にではあれ、朝鮮独立のための統一戦線として左右両翼糾合できたという点で独立運動における画期的な存在であったこれまで独立運動に於いてそれまでほぼ無名であった大統領選ばれたのは、第一次世界大戦終結に際して民族自決をはじめとした「十四か条の平和原則」を唱えたアメリカ合衆国ウィルソン大統領人脈があると考えられ、さらにかつての大韓帝国皇帝高宗とも繋がりがあるという事指摘されている。実際同時期に成立していた各種朝鮮独立運動「臨時政府」において、リストナンバー1か2に必ず名を連ねている。 一方では、国際連盟による朝鮮委任統治提案していた。これは独立達成のためには委任統治というステップを踏むことが必要であるという考えであったが、これは左派李東輝らの強い反発を受け、「第二李完用」であると非難された。承晩は完全に政府から浮き上がり1920年12月8日上海入ったばかりであったが、1921年5月上海去った。やがて弾劾を受け、1924年からは1925年3月21日には、大統領職追われている。以降アメリカでロビー活動専念することになった李承晩は「日本はいずれアメリカ敵対するその時には朝鮮戦友とするべきだ」、「日本侵略容認して朝鮮見殺しにしたアメリカ同罪である」(桂・タフト協定)などと強い調子アメリカ支援要請したが、アメリカ支援得られなかった。 1944年9月カイロ宣言の「適切な手続きにより (in due course)」朝鮮の自由と独立保障するとした文言に「なぜ彼ら(連合国)は、われわれを実質的に助けたり激励したりして、自分たちの真心示そうとしないのか」と懸念感じ米国官僚対し「われわれ朝鮮は、国際社会泣いている子どもと同じだ。われわれが望むのは、正義公正だけだ。泣く子は、時や場所をわきまえない朝鮮は、諸大国集まりえすれば、時も場所もわきまえることなく泣き立てるだろう」と語った

※この「臨時政府と再度の渡米」の解説は、「李承晩」の解説の一部です。
「臨時政府と再度の渡米」を含む「李承晩」の記事については、「李承晩」の概要を参照ください。

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